戦国時代において、何かと目にする機会が多い「朝倉家」。
浅井家と連合して織田信長に対抗した、というイメージも強いかと思います。
しかし、朝倉家の当主・義景(よしかげ)はどうにも微妙な出来だったのに、どうして朝倉家は恐れられる存在になっていったのかと言いますと、ひとえにそれは「朝倉宗滴(あさくらそうてき)」のおかげなんですよ。
この人がいてこそ、朝倉家は成り立っていたんです。では、彼はいったいどんな人物だったんでしょうか?
本当なら朝倉家の当主になるはずだった
文明9(1477)年、宗滴は朝倉家当主・朝倉孝景(あさくらたかかげ)の八男として誕生しました。宗滴とは出家後の名ですが、ここではこれで統一しますね。
八男とはいえ、宗滴は嫡子の扱いを受けていたとも言われています。というのも、彼は父・孝景が使っていた「小太郎」という名を使い、最初の名は当主が代々使う「景」の字を受け継いだ「教景(のりかげ)」だったからです。
しかし、父が亡くなった時、宗滴はまだ5歳でした。当然家督を継いでもほぼ無意味なので、この時は長兄の氏景(うじかげ)が急遽継ぐこととなったんです。本当は代打的なものだったんでしょうが、これで宗滴は当主の座から遠ざかって行くこととなりました。
文亀3(1503)年、宗滴が27歳の時、朝倉家を揺るがす一大謀反が露見します。
宗滴の妻の兄である朝倉景豊(あさくらかげとよ)が、当時の当主となった貞景(さだかげ)を廃して下剋上をしようと企んだんですよ。ちなみに貞景は氏景の子で、宗滴の甥に当たります。
世が世なら自分が当主となっていたはずの宗滴、最初は妻の縁もあって景豊側に加担していました。しかしそこは先を見る能力があったんでしょうね。すでに自分が当主になるには時が経ちすぎていると理解した宗滴は、謀反の実行直前になって寝返ったんです。そして貞景にこのことを告げ、景豊は自害へと追い込まれたのでした。
この功績によって、宗滴は敦賀を任され、当主を補佐する立場として朝倉家での地位を確固たるものにしていったわけなんです。
30万もの大軍を相手に大勝利
ところで、この時代の北陸地方で必ず直面するのが、「一向一揆」。一向一揆とは、浄土真宗本願寺教団の信徒が権力に抵抗して起こした一揆のことなんですが、この力はすさまじく、あの織田信長でさえ手を焼くほどのものだったんです。
そんな一向一揆の中でも最大級のものが加賀一向一揆で、100年近く続きました。その加賀一向一揆はだんだんと勢力を広げ、ついには越前へと侵攻してきたんです。
それを食い止めようと、宗滴は兵を率いて九頭竜川(くずりゅうがわ)付近で一揆と激突しました。これが、九頭竜川の戦いです。
宗滴率いる兵は約1万、対する一向一揆は、なんと30万!この時代のことなのでかなり「盛って」るんですが、1万よりははるかに多かったはずです。
数的には圧倒的不利の局面に、宗滴は機先を制することを最優先しました。
彼は、夜に川を渡って一気に攻撃をしかける策を採ったんです。視界は暗闇でほぼゼロ、重い甲冑や武器を身に付けての渡河作戦はかなりリスキーでしたが、宗滴の指揮によってこの夜襲は見事に成功しました。一揆軍は大混乱、総崩れとなり、宗滴は勝利を収めたんです。
宗滴の言葉に、こんなものがあります。
「武者は犬と呼ばれようが畜生と呼ばれようが、勝つことが肝心である」
勝つことこそいちばん大事なこと。
その信念がこもった戦いでした。
浅井家との絆をつくる
ところで、朝倉家というと浅井(あざい)家、浅井家というと朝倉家…というふうに、戦国時代はセットで出てくることが多いですよね。織田信長と姻戚関係だった浅井長政(あざいながまさ/淀殿の父)が、その関係よりも朝倉家を選んで連合を組み信長と戦った話は有名です。
そうした朝倉・浅井の絆を作ったのもまた、宗滴でした。
近江南部の六角(ろっかく)氏と、同じく近江を拠点とする浅井家が勢力争いとなったことがありました。当時の浅井家当主は浅井亮政(あざいすけまさ)、長政の祖父に当たる人物です。
この争いに際し、宗滴は六角方として加わりましたが、実質、両者の調停役をつとめました。この時に浅井亮政にずいぶん良くしてあげたため、亮政からは深く感謝され、朝倉家との絆が強まったというわけなんですよ。
戦だけでなく、このような外交的な手腕も持ち合わせていた宗滴は、他にも室町幕府将軍や管領の求めに応じて戦に参加したりして、幕府に対しても朝倉家の存在感を高めていったんです。
生涯現役、陣中で倒れる
大車輪のごとき宗滴の活躍により、朝倉家は北陸屈指の武家として周辺ににらみをきかせるようになりました。宗滴が仕えた朝倉4代(氏景・貞景・孝景・義景)の間に全盛期が到来したのは、ひとえに宗滴の存在があったからこそだったんですね。
しかし、宗滴には老いが忍び寄っていました。
天文24(1555)年、すでに79歳になっていた宗滴は、一向一揆との戦いを続けていました。1日に3つの城を落とすなど、その実力自体は衰えていなかったんですが…やがて陣中で病に倒れてしまったんです。
朝倉家の本拠地・一乗谷(いちじょうだに)に戻った宗滴ですが、老いと病に勝つことはできず、まもなくこの世を去りました。
宗滴の死は、実は川中島の戦いにまで影響を与えています。
当時、宗滴は長尾景虎(ながおかげとら/上杉謙信)に呼応し、一向一揆と戦い、彼の背後の敵を引きつけていました。しかし宗滴が亡くなったことで背後の抑えがなくなり、景虎は武田との戦いをいったんストップしなければならなくなったんですよ。こうして、第二次川中島の戦いが和睦へと導かれたというわけです。
あと3年生きたかった理由
死の間際、宗滴はこう言い残しています。
「あと3年生きて、信長の行く末を見てみたかった」
と。
この頃の信長は、まだ織田の頭領になるかならないかの頃。当然、桶狭間の戦いもまだでしたし、どちらかといえば「大うつけ」のイメージが強かったんです。
そんな中で信長の行く末に言及した宗滴は、きっと、信長の器量が半端ではないことを見抜いていたのかもしれません。もし、あと3年生きていたら、宗滴は何と言ったでしょうね。
宗滴を失った朝倉家は、文字通り「(宗滴が)いなくなってありがたみが分かる」状態となります。一向一揆にはまったく勝てなくなり、当主の義景の優柔不断ぶりは日に日にひどくなり、坂道を転げ落ちるかのように衰えていきました。そして、浅井家と共に信長の前に敗れ去り、滅亡してしまうんです。
こういう事実があると、宗滴こそが朝倉家だったと言っても過言ではありませんよね。
宗滴は、こんな言葉も残しています。
「名将とは、一度大敗を経験してそれを乗り越えた者。自分は勝ち戦ばかりで大負けの経験がない。だから名将とは言えんなあ」
自慢とも謙遜ともつかない言葉ですが、これくらいのどっしり感がないと、一家を支える大黒柱にはなれなかったんでしょう。彼の器の大きさを物語る言葉かなと思います。
まとめ
- 本来なら朝倉家の当主になるはずだったが、補佐役に徹することを選んだ
- 30万もの大軍を相手に、1万の兵で勝利を収めた
- 浅井家との絆を結んだ
- 死ぬ直前まで戦場で戦っていた
- 織田信長の器量を早くに見抜いていた
影の朝倉家当主・朝倉宗滴。「強い朝倉」のイメージをつくり上げた名将でした。もう少し早く生まれて当主になっていれば、朝倉家の歴史は変わったかもしれませんね。
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