秋田実季 日之本将軍と謳われた名家の末裔、配流の地で何を思う

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秀吉小田原攻め、朝鮮出兵、関ヶ原、大坂の陣、名高い戦場を駆け抜けた名門武将は、配流先の小さな草庵で最後を迎えました。

どこで道を誤ったのか?

今日はそんなお話など。

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日之本将軍(ひのもとしょうぐん)

古来「まつろわぬ者」の住む地とされる奥州北部から、北海道・千島にまたがる蝦夷の地。このあたり一帯を支配下に置いたのが“日之本将軍”と称された安東(あんどう)氏でした。十三湊(とさみなと 青森県五所川原市十三湖の辺り)を中心に、北方の文物の交易で大いに栄えたため、「日之本将軍」などと言う大層な名前で呼ばれました。

 

この安東氏がのちに“ある出来事”の後、秋田氏になるのです。

 

元をたどれば平安時代の奥州安倍氏、奥州藤原氏に行きつくのですが、その安東氏が出羽の国(現在の山形県と秋田県)に移った時に、湊(みなと)安東家と桧山(ひやま)安東家の両家に分かれました。15世紀半ばのことと伝わっています。

 

分かれた両家を再び統合させたのが、桧山安東家八代目当主、安東愛季(ちかすえ)でした。

 

天正15年(1587年)、脇本城(わきもとじょう 秋田県男鹿市脇本)で、愛季は49歳の生涯を終えます。跡を継いだのは次男で、12歳になる実季(さねすえ 後の秋田実季)でした。業季(なるすえ)と言う兄がいたのですが、生来病弱で5年前に世を去っていました。

 

 

文人大名

跡を継いだのは良いのですがこの実季、『奥羽永慶軍記』に「詩は李杜を追逐(ついちく)し、歌は藤氏(とうし)の伝(つたえ)に基づく。身、武門の中に生るといへども、思いを風花雪月によせ・・・」(漢詩では李白・杜甫に倣い、和歌では藤原氏をお手本にする。自身は武将の家に生まれたとは言え、花鳥風月の風流の世界に思いを馳せ・・・)と、書かれています。部門の家に生まれた趣味人は、往々にして家を亡ぼす。そうならなければ、良いのですが。

 

世の中も定まった江戸時代ならともかく、豊臣政権による天下統一の時代に入ったとは言え、まだまだ戦国の世。まして中央から遠く離れた奥州の地では、領地など切り取り御免の勢力争いの真っ最中です。他人事ながら「この人大丈夫?」と思ってしまいますが、案の定大丈夫じゃありませんでした。

 

 

せっかく愛季の死をないしょにしたのに

父、愛季が亡くなった時と言うのが、唐松野(からまつの 秋田県大仙市)で、角館(かくのだて 秋田県仙北市)城主の戸沢盛安(もりやす)と対陣の最中でした。

 

他家と戦争状態にある時、当主の死を隠すのは普通にあることで、この時も愛季の死は厳密に伏せられます。夜の闇に紛れて、下人に扮した家臣が棺を城外に担ぎだし、埋葬する方法が採られました。しかしこう言うことはどこからか漏れるもの、とりわけ敏感に反応したのは湊安東家でした。

 

両安東家を統合したのは、桧山安東家の愛季だと書きましたが、そのやり方は、世継ぎを失った湊安東家に、自身の弟である茂末(しげすえ)を送り込み、愛季自身は、まだ幼かった茂末の後見役に収まると言うものです。これではお家乗っ取りではないかとの声があり、それ以来両安東家の間にはごたごたが絶えませんでした。

 

愛季が亡くなった今こそチャンスと思ったのでしょう、湊家が桧山家打倒の兵を挙げたのです。文人とは言えそこは戦国大名、実季は先手を打って、兵4,000鉄砲300挺の軍を繰り出し、湊家を責め立てます。両家ともに加勢の軍を頼み、3年がかりでようやく桧山家勝利で決着が付きました。世に言う「湊・桧山合戦」です。しかしこの勝利には、ろくでもないおまけが付いて来ました。

 

 

蠣崎慶広(かきざきよしひろ)蝦夷地を掠めとる

蠣崎慶広:Wikipediaより引用

安東家の蝦夷地代官を務める、松前城主蠣崎慶広と言う男が居ました。日頃より安東家の元を去って、蝦夷地の支配権をわがものにしたいと考えていましたが、「湊・桧山合戦」を利用しようと思いつき、実季に忠義面をして近づきます。

 

「この戦は豊臣秀吉公の定めた【関東惣無事令(かんとうそうぶじれい)】に反する私戦であり、このまま捨て置けばお咎めをこうむりましょうぞ。はや上洛・申し開きの上、秀吉公から所領安堵のお墨付きを頂くのが上策と言うもの」と進言しました。

 

この言を入れて天正18年(1590年)、実季は上洛しますがまだ15歳の少年、補佐役として蠣崎慶広が同行します。所領安堵の件はすんなり通りましたが、いただいた書き付けの宛名は「秋田藤太郎」。認められたのは出羽の国の所領だけで、蝦夷地の事には何も触れていなかったのです。

 

どう立ち回ったのかその年蠣崎慶広は、従五位下民部大輔(じゅごいのげみんぶたいふ)に任ぜられます。そればかりか、秀吉から蝦夷地の支配を認めるお墨付きを賜り、姓も蠣崎から松前に改めます。何のことはない、江戸時代を通じて蝦夷地を支配した“松前藩”の誕生です。

 

若年の実季では、このやり口に対抗できなかったのでしょう。この策略にかかって安東家は、蝦夷地の海産物・木材などの資源、交易により得られる銭を失ってしまいます。これより今まで名乗っていた安東の名を捨てて、秋田家を名乗るようになりました。“日之本将軍”安東家の終焉です。

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お嫁様

この後実季は、秀吉の小田原征伐へ参陣したり、九戸政実(くのへまさざね)の乱平定の討伐軍や、朝鮮出兵にも参加し、戦国大名らしくなって行きます。関ヶ原では東軍に属し、大坂夏の陣でも徳川方の武将として戦いました。しかし慶長7年(1602年)、家康の命令により、常陸の国宍戸(ししど)へ転封されますが、石高はわずか5万石となり、秋田家の財政は厳しいものとなります。

 

徳川の世も定まって来た寛永8年(1631年)、突如幕府から呼び出しを受けた実季。土井利勝・酒井忠世(ただよ)の両老中から、「所領没収、藩主罷免」を申し渡されます。その5日前には長男俊季(としすえ)が藩主に任ぜられたばかりでした。

 

実は実季の正室は円光院と言い、長男俊季の実母ですが、この方織田信長の血を引き、細川右京太夫昭元の娘にして、将軍徳川秀忠公の正室お江の方とは従姉妹同士、戦国の世の一流どころの出です。なかなかに田舎大名の実季には、気の張るお相手でした。

 

肩の凝る奥さんと顔つき合わせるより、安らげる女性と暮らしたいと思うのは自然な事です。実季も当時の習いで、側室を何人も置くことになりました。その中の一人との間には、季次(すえつぐ)と言う男の子も生まれ、一時は長男俊季を廃嫡し、この子を世継ぎにと考えたこともありました。

 

この話は当然嫡男俊季の耳にも入りますし、自分の生んだ嫡男を廃され、側室の生んだ子を跡継ぎにされかかった円光院の怒りは、かなりのものがあったでしょう。

 

 

朝熊配流(あさまはいる)

廃嫡されかけた長男と実父の間が上手く行くはずもなく、領内では人目もはばからずの親子げんかに発展。これが幕府の耳に入り「所領没収、藩主罷免」の沙汰が下ったのです。円光院を通して、お江の方に働きかけがあったのかもしれません。これが1月のことでしたが、8月には伊勢朝熊への配流が命ぜられました。

 

こうして秋田実季は、住み慣れた奥州の地を後に、伊勢朝熊へと旅立ちました。この時すでに56歳、当時としては晩年です。奥州の名族の家に生まれ、幾多の戦場を駆け巡った末のこの仕打ちは、どれほどの屈辱だったでしょう。

 

辿り着いた伊勢の地では、永松寺(えいしょうじ)と言う禅寺の境内の竹林に、粗末な草庵が結ばれていました。ここが実季の終の棲家となりました。

 

 

平穏な日々

監視役に選ばれたのは、永松寺の住職祖明和尚でしたが、書や詩歌に優れたなかなかの人格者。文人の素養のある実季とはすぐに打ち解け、互いに詩歌の応酬などを行い、奥州を発つ時には思いもしなかった平穏な日々が過ぎて行きました。

 

配流の身とは言っても庵からの出入りは自由で、村人との交流もありました。また朝熊は伊勢神宮領で、村の取り決めは長老たちが取り仕切っていましたが、請われてその相談に乗ったりして日を送ります。

 

万治2年(1659年)11月、この時代には珍しい84歳の長命で没した実季。その頃陸奥の三春に転封になっていた秋田家は、すでに孫の盛季(もりすえ)の代になっていたそうです。

 

最後の30年近くを故郷を遠く離れた土地で暮らし、親しかった人とも別れ、そのまま世を去った実季。その心のうちは本当に穏やかなものだったでしょうか。

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