甲斐の武田信玄に仕えた山本勘助は、長らく幻の軍師とされてきました。
その理由は『甲陽軍鑑』(武田の戦術を記した軍学書)にしかその記述がなかったため、実在が疑われていたからです。
しかし昭和44年に発見された市川文書をきっかけに、今ではその実在性が高まっています。
武田家に50代で仕官。戦場での見事な駆け引き、築城術など異彩を放つ存在でしたが、川中島の戦いで壮絶な戦死を遂げます。
謎が多くいまだ歴史のベールに包まれた勘助。その生涯に迫ってみたいと思います。
現代は中高年の転職と言えば「大変」「苦労しそう」などというワードが飛び出しそうですが、時代は違えど今回紹介する山本勘助が武田家に仕えたのは50代。それも当時20そこそこの息子のような若造(失礼!)の信玄にスカウトされたんです。
勘助はそれまで今川や北条などで就職(仕官)活動をしましたが連敗続き。しかもその理由は容貌が醜く隻眼、片足が不自由という第一印象の悪さ(失礼)だとか。
ところが武田信玄は勘助をVIP待遇で迎え入れます。
それまで誇る職歴がない50代にもかかわらず、初めての正式な仕官先がかの武田信玄、しかも破格の待遇なんてすごいと思いません?
一体、信玄は勘助の何に魅かれたのでしょうか。それを見る前に勘助の前半生をたどってみましょう。じつはそこに信玄が求めた理由が詰まっていました!
勘助誕生
山本勘助の生誕地は、駿河国山本(静岡県富士宮市)と三河国牛窪(愛知県豊川市)などいくつかの説があります。
山本説
山本家の本家・吉野家(江戸時代、陣屋代官をつとめた)の系譜によるもの。勘助の父は三河国牛窪で軍学指南をしていたが、山本に帰り、勘助が誕生。
牛窪説
「甲陽軍鑑」によると、この地で生まれたという。
この他にも三河では、勘助は三河国賀茂に生まれ、牛窪で育ったという伝説もあります。勘助の生誕伝説は日本各地にあり、たとえば讃岐国(香川県)出生説。育った周防(山口県)では勘助が猪を退治した際に隻眼になった伝説が語られています。
生年も1493年や1500年説があり様々です(今回は1493年説でいきます)。
武者修行時代
『甲陽軍鑑』によると、12歳の時に三河牛久保城主の家臣大林氏の養子に入りますが、20歳で養家を飛び出し、武者修行の旅に。武芸を磨きながら高野山に登って祈願。摩利支天を授けられて各地を巡ります。
ここから何とも型破りな人生がはじまります。
四国、九州、山陽、山陰を巡り、尼子氏や毛利氏に仕えながら兵法や剣術の修行に励みます。
でもただ武芸の腕を磨いていただけではありません。
勘助はすでに参謀になって戦乱の世で活躍したいという思いを抱いていたのかもしれません。戦国のフィールドワークにも挑んでいます。戦闘を間近にしながら城の役割、能力などを知り、築城術を学んだようです。さらに地理、風俗、城下の様子、領主の人柄、城、兵や武器の能力などを調べ、一度駿河に帰ると、今度は関東へと修行に向かいます。
勘助の身体が満身創痍な理由は、長い修行で苦労したからだともいわれており、命がけのフィールドワークだったようです。
浪人時代
勘助が就職活動を始めた時はすでに40代でした。修行?フィールドワーク? 長すぎる!とツッコミが入りそうですが、そこはそれ長年の研鑽を武器に頑張ります。
ところが世間はアラフォー武将には厳しかったよう。関東の北条氏、駿河の北条氏にて面接するも第一印象が悪く実力がかすみ連敗続き。ながーい浪人生活へと突入します。
フィールドワークの修行生活約20年、浪人生活9年間とフリが長すぎの前半生。しかも浪人中は今川家への未練か、親戚の今川家臣庵原氏のもとに居候という「オワコン」寸前に・・・。
武田家臣時代
武田信玄:Wikipediaより引用
しかしチャンスが訪れます。
1541年に武田信玄は父の信虎を駿河へ追放。この時、駿河との交渉役だった武田家臣の板垣信方を通じて、追放劇を知略家の勘助が手伝ったとも。
板垣信方にその力量を認められた勘助は武田家からスカウトされるのです。
当時、23歳の若き信玄は今後の本格的な信濃進出を見据え、信濃で堅固な城を造る必要に迫られていました。そこで築城の名人を探していたのです。
信玄は信方の話を聞くと、勘助に100貫の報酬を約束し、さらに必要な馬や小袖を与えるなどの準備をさせて甲斐へ迎え入れました。
今まで醜いだの嫌いだのと言われ、仕官を断られてきた勘助にとってはまさに三顧の礼に等しい待遇。甲斐に赴き躑躅ヶ崎館で信玄と初対面を果たします。
信玄は勘助の器量を見抜き、勘助もこの主君なら仕え甲斐がある!と胸を高鳴らせます。信玄はこの時、さらに100貫上乗せして200貫、しかも禄ではなく知行地で与えるという大盤振る舞い。新参者は20貫で召し抱えていたので破格の待遇です。
信玄はなぜこれほどまでに勘助を厚い待遇で召し抱えたのか。
それはズバリ、勘助が今の武田家にはいないスキルを持つ得がたい人材だと認めたからです。コイツは只者ではない!と恐ろしいまでの器量に気付いたのです。
それは何かと言うと1つはもちろん築城術。勘助は各地の城を知り、自ら新たな築城スタイルを考え出すほどの築城の名人でした。
次にその情報力。当時は誰もが自由にどこへでも行ける時代ではありません。ところが勘助は20年間各地を巡り見聞していました。情報を大切にした信玄。武将の目で見て判断して集めた生の情報は何物にも代えがたい大きな魅力だったでしょう。勘助は現代で言えば歩くSNS状態。しかも実体験に基づくので信頼性も高い。
知行はこの情報代も込みだったかもしれませんよね。
さらに軍略。陣取りの軍法や武芸百般に通じていた勘助は武勇の将。のちに信玄の攻撃が巧妙になったのは勘助の助言とも。そう、武田家の戦い方をも変える軍略の持ち主でした。
これらの異才はすべて賢さや若さだけでは太刀打ちできないもの。20年近くかけて実地を見て学んで積み上げてきた深い見識があるからこそ得られるものです。
これらに加えて勘助の人間的な魅力にも魅かれたのでしょう。それはすなわち視野の広さと深い見識を背景に、しがらみにとらわれない自由な発想ができること。
武田家では信玄を慕う武勇の士は大勢いましたが、信玄の政治を理解し、時には助言できるような家臣はいなかったと思われます。信濃進出以後は、信濃を統治する政治力も重要になり、併せて武田家の体制や戦い方も変えなければなりません。信玄は武田家を改革して自分の理想とする新たな武田家を作り上げるパートナーとして勘助を抜擢したのではないでしょうか。
支配の秘策
山本勘助:Wikipediaより引用
中高年の星勘助。武田家でどのような実力を発揮したのでしょうか。ここからは前半生の長いフリを一気に生かしていきます!
ただちに城を9つも落とすなど軍事面でも強烈なデビューを果たした勘助ですが、信玄をうならせたのはその深い知略だったでしょう。
信玄は信濃進出の手始めに滅ぼした諏訪頼重の娘を側室に迎えようとしますが、家臣一同「敵の娘は危ない!」と大反対。しかし勘助は賛成しました。「この娘が男子を生めば、諏訪家の遺臣は諏訪家再興がなるかもしれないと、忠勤に励むでしょう」と述べます。これこそ勘助ならではの政治的配慮でした。信玄とこの姫との結びつきにより、諏訪遺臣を取り込んで武田家による諏訪支配を安定させようとしたのです。
また、勘助は占いや易術にも優れ、戦いの日にちを占ったり、地鎮祭を執り行ったりする役目も果たしていました。さらに武田家は「甲州法度之次第」という分国家法を作りましたが、これに勘助が関わっていたとも。その他、信玄の有名な治水工事も、築城を得意とした勘助がアドバイスした可能性は十分ありますよね。
築城術
松代城(海津城)址:Wikipediaより引用
勘助の築城の極意は「攻めるに難しく、守るに易い城」でした。どっちやねんと怒られそうな矛盾する造りですが、高遠城(長野県伊那市)、小諸城(小諸市)、海津城(長野市)の築城においてその手腕を見せています。
信玄の城は防御の複雑な構造が特徴。勘助は虎口(こぐち 出入口)の防御施設である馬出と枡形を重視しました。馬出は虎口の前の曲輪、枡形は虎口を方形に囲った空間です。とくに馬出が半円状のものを丸馬出と呼び、勘助の考案とされています。死角がなく少人数で大勢にあたりやすい一方、出撃拠点にもなりました。
軍略 戸石崩れ
勘助は軍略にも優れ、とくに戸石崩れの武功が有名です。信濃攻略を進める信玄は北信濃の雄・村上義清と対決します。そこで武田方は村上氏の東の要である戸石城を攻めますが、その途中他の武将と交戦中だった義清が戻ってきたため武田軍は大混乱。ついには信玄の本陣も退却がままならない状態に。この時、勘助が「旗本50騎をお貸しください」と信玄に申し出ました。
勘助はこの旗本を信玄の本陣に見せかけて巧妙に南へと移動。するとつられた村上勢も南へと移り、北にいた信玄の本陣は態勢を立て直し退却することができました。さらに勘助は敵の背後にまわり、突撃して敵を大混乱に陥らせたとも言われています。
この功績により勘助は知行800貫の足軽大将になりました。
この後、武田家はそれまでの力攻めから兵を損なわないよう巧妙な策に転じています。
これも勘助のアドバイスとも言われています。
川中島の戦いと最期
故人春亭画 応需広重模写「信州川中嶋合戦之図」:Wikipediaより引用
信濃平定を進める信玄はついに川中島で越後の上杉謙信と対峙します。川中島の戦いは5回行なわれましたが、勘助の実在説を高めた市川文書は、3回目の戦いの直前、信玄が市川氏に出した手紙です。「子細は菅助が申し伝える」と書かれていたことから、一気に勘助実在説が高まりました。
5回の戦いの中で大決戦となったのは4回目の戦いのみですが、これが勘助の最期の戦いになりました。
妻女山に布陣した謙信を戦いにおびき出すために勘助は「キツツキ戦法」を進言します。これは武田勢を二手に分け、一隊が妻女山を奇襲。慌てて山を下りてきた上杉勢を川中島で待ち構えた本隊が討ち取るという戦法です。これはキツツキが木をたたいて虫をおびき出すことから「キツツキ戦法」と後に名付けられたようです。
しかし謙信もさるもの、勘助の作戦を見破ります。
そのため翌朝、川中島に布陣した武田勢の前に妻女山から下りていた準備万端の上杉の大軍が現われました。戦いは妻女山に向かった別働隊がいない分、武田勢は劣勢に立たされます。信玄の弟も討死する死闘となり、責任を感じた勘助は「往くことは流れのごとし」と言って敵陣に突撃。68ヶ所もの傷を受けながら壮絶な最期を遂げました。
こうして勘助は波乱にとんだ一生を終えました。
まとめ
軍略や築城から政治まで、勘助は先鋭的なマルチプレーヤーだったのではないでしょうか。
その勘助がマルチな才能を発揮できたのも信玄という主君がいたからこそ。
中高年にして先鋭的なマルチプレーヤー。組織経験少。第一印象悪。いろんな意味で使いづらいかもしれません(笑)。今川や北条が、勘助を雇わなかった真の理由は、勘助の説明した先鋭的な築城や軍略を理解できなかったからともいわれています。
しかし信玄は若き武将ながら悪条件に目もくれず勘助の器量を見抜きました。そして新参者の勘助が働きやすいように尽力もしています。勘助を活かしきって、名実ともに誰からも一目置かれる大大名に成長した信玄も先見の明がある見事な武将というほかありません。
勘助のような人材はいれば大変ありがたいのですが・・・。受け入れる側にもそれを見抜く目、使う器量などかなり力量が求められるようです!
コメントを残す