戦国基礎知識 戦国通を名乗るなら、押さえておこう基礎知識

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このサイトでは戦国時代・武将についていろいろお話している訳ですが、「あの言葉の意味はこれで合ってるのかなぁ」とか「この言葉はイマイチ意味が掴めないのだが」とか思われることはありませんか。

 

知っているようでも細部までは詰め切れていない、そんな知識を今一度おさらいしておきましょう。

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戦国時代っていつ?

そもそも日本史の時代呼称はどうなっているのでしょう。原始・旧石器時代から始まって縄文、弥生と続きますが、日本全土を支配下に置く統一政権が成立してからは、政権母体の、あるいは政権の所在地の交代ごとに、時代名が付けられて来ました。

 

飛鳥、奈良、平安、鎌倉と来て、この後少しややこしくなります。鎌倉、室町、安土桃山、江戸と進む説と、その間に南北朝、戦国を挟む説が有るのです。それも単純に順番に挟み込んでいく説と、室町の中に南北朝と戦国を含ませる説と、二通りあります。このあたりはもう研究者それぞれと言ったところで、統一見解は無いようです。

 

では肝心の戦国時代はいつからいつまでかと言うと、応仁の乱が始まった応仁元年(1467年)から、織田信長が将軍足利義明を奉じて上洛した、永禄11年(1568年)までと言うのが一般的な説です。

 

この後信長、秀吉の安土桃山時代を経て、家康が江戸に幕府を開いた慶長8年(1603年)から始まるのが江戸時代です。

 

つまりざっと100年間、日本中のあちこちでしょっちゅう戦が起きていたのですから、その間に生まれ合わせた2世代か3世代の人間、特に庶民にとってはたまったものじゃありませんでした。たまたま自国の領主が力を持っていて、平和な暮らしが送れても、いつ崩れ去るかわからない不安定なものでした。

 

 

戦国大名の定義は?

室町時代までは中央の政権に替わってと言うか、下請けとして地方の国を実際に統治していたのは、“守護大名”でした。彼らは年貢も取り立てましたが、道や河を整備して通行の便を計り、野盗を捕らえる警察の機能も果たしました。

 

その後に出て来る“戦国大名”とどこが違うかと言うと、“守護大名”は室町幕府から任命された “役職”だったのです。まず中央政権ありきでした。“守護大名”の手に余るような事態が起これば、中央政権が乗り出してきます。ここが一国一城の主として独立していた“戦国大名”との、根本的な違いです。“戦国大名”の収めかねる問題が起きても、誰も助けに来てはくれません。さっさと隣国の領主に喰われてしまうだけです。

 

ですから室町幕府が弱体化して、その権威が失われて行くに連れて、幕府の権威に寄りかかって己の地位を保っていた“守護大名”は没落して行きます。反対にそれほど幕府の権威を必要とせず、自身が力を持っていた“守護大名”は、そのくびきから逃れて“戦国大名”へと変身して行きます。

 

彼ら“戦国大名”は、中央政権の力や権威を借りずに領国を治め、軍事・外交・税制も自らの力と考えで差配しました。そして倒れ掛かった幕府に替わり、「我こそは天下に号令せん」と思った者たちにより、日本列島総沸騰状態の戦国の世が始まりました。

 

日本のあちこちで戦端が開かれ、裏切ったり裏切られたり、同盟を結んだり破棄したり。婚姻関係や人質を送ったりして、自国の安泰を図ろうとしましたが、ある程度の効果しか望めなかったのはご承知の通り。

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戦国大名成り立ちのパターン

この時代の主役を張った戦国大名の成り立ちは、いくつかのパターンに分けることが出来ます。以下代表的なものをご紹介します。

 

・守護大名から戦国大名への横滑りパターン

守護大名として幕府から領国を預かっていたのが、弱体化した幕府の力に頼れず、自らの権力基盤を強化して、戦国大名へと変身して行ったパターンです。もともとの領国は有ったわけですし、支配体制も整えていたわけですから、成立しやすかったと思います。

 

足利氏の一門で、代々駿河の国を治めていた今川氏、甲斐の国の守護職であった武田氏、豊後の国の大友氏、薩摩の国の島津氏などがこのパターンです。彼らは戦国大名として自立するとともに、周囲の国へ侵攻をはじめ、時代を戦国の世へと導いていきます。

 

・守護代から戦国大名へのパターン

これは「守護大名から」の亜種になるのですが、守護大名は京の都に屋敷を構えて住み着き、中央の政務に携わる者が多かったのです。領国の事は家臣の中から代官を任命して、支配を代行させました。これを“守護代”と呼びます。最初の頃は一代限りの職でしたが、いつの間にか世襲化して行き力を持ち、実質的統治者になります。

 

越後の国守護代長尾氏に出自を持つ上杉氏、越前の国守護代朝倉氏、尾張の国守護代織田氏、阿波の三好氏、出雲の尼子氏などが代表的な例です。

 

・国人領主から戦国大名へのパターン

国人(こくじん、くにびと)とは、国人領主、国衆、在国衆とも呼ばれ、国元土着の実質的な領主を指します。守護大名の下で農民層を直接支配していたのは彼らでした。

 

守護代との違いは、国人は鎌倉時代の地頭を源流としており、身分は高くありませんが、地元豪族など地域密着型の支配者です。守護代が守護大名から任ぜられた者であるのに対して、国人はむしろ守護大名に対抗する勢力でした。

 

外部からやって来て、自分たちの頭を押さえつける守護大名など、隙あらば追い出してやろうと常々思っているところへ、中央政府の弱体化と言う絶好のチャンス到来。代々地域に根を張っていた国人は、地元住民の応援も得て、下剋上を果たします。そもそも「下剋上」と言う言葉は、下のものが上のものを実力で倒す、この頃の世相から生まれた言葉なのですから。

 

国人領主としては、土佐の豪族出身の長宗我部氏は、秦氏を祖先に持ち一時は四国全土を支配します。肥前の龍蔵寺氏は、主君の少弐(しょうに)氏から独立し、勢力を拡大します。安芸の国の毛利氏は、陶氏、尼子氏を倒し中国地方を制覇します。

 

この3パターンに当てはまらず、自分の度胸と頭脳で成り上がって行った、斎藤道三や豊臣秀吉のような例も当然あるわけです。

 

 

武士の食事

気分を変えて、次は武士の食事風景を覗いて見ましょう。一般的にこの頃の武士の食事は、基本的に朝夕の1日2回(朝の8時頃と午後2時頃)。夜食は夜遅くまで務めがある時などに限られました。

 

主食は玄米で赤米や黒米・雑穀などを、1日に5合も食べていました。必要カロリーを、ほぼ主食だけから摂取していたようです。白米は、大名など身分の高い者だけが口に出来る贅沢品でした。

 

これを現代のように釜で柔らかく炊いたものを「姫飯(ひめいい)」、蒸籠(せいろう)で蒸し上げたものを「強飯(こわいい)」と呼びます。中級以下の武士の家庭では、雑炊にして量を増やす工夫もしました。

 

「強飯」は汁をかけて食べるのが一般的で、織田信長が好んだとされる湯漬けは、飯に漬物を乗せだし汁をかけたものです。今で言う汁かけ飯つーか、ねこまんまですが、一気にかき込めて腹もくちくなります。気の短い信長様には打ってつけだったのでしょう。

 

副菜は1品か2品、それに汁と漬物のセットが平均的なところです。汁物は味噌汁や塩味の野菜汁、おかずは余裕のある家庭では、鳥肉や魚肉が付くこともありますが、ほとんどが野菜の煮物や梅干し程度でした。

 

味付けは塩、味噌、酢、ひしお(魚醤)などで、肉体労働が多い生活でしたから、濃い目が好まれました。信長様もからい物大好きだったようで、だから怒りっぽかったのかしらん?

 

対して健康にも気を使った家康は、生涯を通じて麦飯一辺倒。それに豆味噌の味噌汁を合わせていました。麦と大豆の2大健康食品を良く摂取したおかげで、75歳の長寿を保ちます。

 

秀吉の好物は味噌味の焼き蛸、今でもお酒のあてになりそうですが、蛸のタウリンは、秀吉の回転の速い頭脳を支えたのでしょう。晩年に好んだのは割粥と言って、米の粒を砕いてから粥に煮たもの。いかにもお年寄りの好みそうな食事です。

 

でも子供の頃の貧しかった思い出が有るのか、常々「一番の馳走は山盛りの麦飯」と言っていました。まず腹いっぱい食べられること、これが第一だったのです。

 

このように普段の食事はいたって質素でしたが、これが客をもてなす宴会の饗応料理となると、段違いに豪華なものになります。また、戦場での食事にも工夫が凝らされていましたが、そのあたりのお話はまた次の機会に。

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1 個のコメント

  • 初めてまして夜分遅くにすみません。
    私は鹿児島県の出水市出身の市野登志雄と
    申します。岐阜に住んでおりますので関ヶ原は
    島津豊久の戦死した所、お墓など何度か訪れています。敵中突破は島津義弘ならではの快挙!
    それに従う家来が凄いのです。故郷出水から1000キロを道を殿の一大事に駆けつけた中馬大蔵の話は子供の頃から聞いて育ちました。

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