戦国時代、「戦のあり方」を大きく変えたのが火縄銃の存在です。
それまで弓矢と刀・槍が主流だった戦に火縄銃が加わることで、戦が大きく変わります。
特に有名なのは織田信長です。
信長の着眼点と経済力によって火縄銃が上手く運用されるようになると、他のどの大名もこぞって火縄銃を戦に投入することに。
結果、戦のありかたそのものも大きく変わるのですが、火縄銃をどのように扱っていたかは、実は大名によって大きく異なるのをご存じでしょうか?
当時の火縄銃の構造
火縄銃は広義では「鉄砲」になりますが、構造を見ると銃弾が発射する銃口部分に火薬と弾丸を入れ、爆発の威力を弾丸の推進力へと変えて発射。
現代のライフルのように弾丸がスクリューして破壊力を増すということもなく、あくまでも爆発力を利用して鉛を人力では不可能なレベルの高速で打ち出す特性のものでした。
もちろん殺傷力は大きなものでしたが、火薬を発射する人間が自分で混ぜるので時間がかかる点や、悪天候時には上手く運用出来ないといった弱点もありました。
一方で、誰が発射しても変わらないという大きな特徴もありました。
刀や槍、弓矢は筋力が優れていたり、戦に慣れている人間の方が上手く扱えたのは言うまでもありませんが、火縄銃に関しては、発訓練を受ければ誰が引き金を引いても同じ威力で発射できるので、それまで戦力にならなかった兵に持たせることによって、一気に「戦力」を拡充させる狙いもありました。
最大射程距離は500メートルから700メートル、有効射程距離は50メートルから100メートル前後と囁かれています。
戦での運用方法
戦での運用方法は、大名によって全く異なります。
火縄銃の特性はあれこれ言っても仕方がありません。
そのため、現状を把握した上でどのように活用するのかがテーマでした。
一度発射したら二発目に時間がかかる特性から、戦の出会い頭的に一撃を入れる形での運用はどの大名にも見られました。
また、火縄銃は思わぬ効果もありました。
それは馬です。戦場を馬に乗って駆ける武士は珍しくありませんが、火縄銃の銃声音は馬を怯ませたとも言われています。
つまり、出会い頭に一発火縄銃を放つことによって、遠距離からの攻撃だけではなく、相手の馬に対しても威嚇が可能でした。。
防衛線では大活躍
防衛線でも火縄銃は大活躍しました。
野戦の場合、戦場を駆け巡るので鉄砲は出会い頭の一発以外は、それこそ装填する暇もないケースもあったことでしょう。
装填している間、相手は待ってくれません。
「今火縄銃に装填しているからちょっと待って!」
なんて通用しません。
しかし防衛線となれば話は別です。
城や砦から相手だけを打てるのです。
ましてや相手はなかなかたどり着いてこないので、「打つだけ」が可能でした。その顕著な例と言えば大阪冬の陣です。
真田幸村:Wikipediaより引用
大阪冬の陣で真田幸村は「真田丸」を作り、そこに立てこもって徳川軍の攻撃を食い止めましたが、火縄銃が活躍したのは言うまでもありません。
迫りくる相手を引き寄せての銃撃は、相手に大ダメージを与えたと共に「むやみに近付けない」との印象を持たせたのです。
誰に持たせるのかも大きなテーマ
火縄銃は誰が発射したとしても威力に変わりはありません。
この点で考え方が分かれました。
「誰が持っても一緒なら下っ端に」と考えた大名もいれば、
「それでも訓練させて上級兵に」と考える大名もいました。
出会い頭の一発くらい、それこそその場で教えたとしても可能です。
わざわざ戦に慣れている「戦力」にそのような役割を与えるよりも、余り戦に慣れていない兵士に「砲台」的な役割で撃たせる。
このような考え方の大名もいました。
しかし、一方では鉄砲に慣れた兵士に持たせることで、「出会い頭の一発」ではなく、「必殺の一撃」として運用した大名もいるのです。
それが島津家です。
島津家と火縄銃の関係
島津家と火縄銃の関係はとても深いです。
そもそも、日本に火縄銃がやってきたのは1549年、種子島です。
種子島は島津の領土。つまり、自分の領土に鉄砲という武器がやってきたのです。
当時、「火縄銃」「鉄砲」ではなく「種子島」と呼称されていたとも言われていますが、その領主は島津家です。
その島津家は鉄砲の運用がとても上手で、兵数に劣る戦でも大きな戦果を挙げました。
その有名な戦法が「釣り野伏」と呼ばれているものです。
まずは普通に戦うのですが、途中で島津軍は退却。退却すれば相手は「追い込め!」となるので追っていくと、鉄砲隊に包囲された場所に導かれ、集中砲火を浴びるというものです。
この戦法により、島津家は九州を制覇したと言っても過言ではありません。
また、朝鮮出兵でも島津は圧倒的な戦果を挙げました。
島津家7,000の兵で数万の兵を破ったのですが、その際に活躍したのも鉄砲でした。
その武勇から、「鬼石曼子(おにしまづ)」との異名まで得たのです。
関ケ原でも島津の鉄砲は大活躍!
関ヶ原の合戦:Wikipediaより引用
関ケ原の島津家といえば退却ばかりがクローズアップされていますが、退却の前は三弾打ちに近い形で自陣に押し寄せる東軍の兵士たちを狙撃。
鉄砲にて応戦した後、最後は中央突破となるのですが、その際は「捨て奸」と呼ばれる戦法を取りました。
捨て奸とは、追撃してくる相手に対し、逃げているはずの兵が一人振り返って応戦。
相手は「?」と思いますが、その際鉄砲で狙撃し、時間を稼ぐという手法です。
生き残るための手法ではなく、とにかく主君だけを逃がす手法です。
島津義弘が関ケ原から脱出できたのは、家臣が命を賭けて捨て奸によって時間稼ぎしたからなのです。
陣から、そして関ケ原から離脱しようと猛ダッシュしている島津家。
しかし、追う側も必死。そこで急に家臣が一人反転し、鉄砲で狙撃。
狙撃された追う側は動揺が走り、一瞬怯みます。これの繰り返しによって、島津義弘は無事に薩摩まで帰還できたのです。
ここまで島津家の鉄砲が活躍したのも、
「誰でも良いからとりあえず火縄銃を持たせろ」
ではなく、訓練された上級武士がしっかりと鉄砲を扱っていたからに他なりません。
仮にあまり鉄砲の扱いに慣れていない兵が鉄砲を持っていた場合、関ケ原で退却しながら装填し、振り返って発射するようなことは出来ないでしょう。
関ケ原の戦いと言えば…こんな逸話も!
関ケ原の戦いといえば、火縄銃に関しては逸話が残されています。
戦の後、囚われの身となって護送される石田三成には多くの将兵が訪れます。
福島正則や黒田長政のように「ざまーみろ!」と言いに来る武将もいましたが、藤堂高虎のようにちょっとした挨拶に訪れた武将もいました。
そこで、このような逸話が残されています。
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藤堂高虎:Wikipediaより引用
藤堂「石田三成さん、見事な戦いでした。貴方から見て、我が隊は何がダメだったでしょう?」
石田「そうだね。おたくの部隊は鉄砲隊がダメだったよ。下手糞だったから鉄砲が活かしきれてなかったよ」
…このような会話が行われ、以来藤堂家では1,000石以上の上級武士が鉄砲隊の隊長を務めるようになったと言われています。
誰が扱っても同じではなく、扱う人が扱うことによって大きな戦果を挙げられるという話ですね。
まとめ
火縄銃は戦の常識を変えましたがそれは結果論。
当時の大名たちは、火縄銃とどのように向き合うのかをいろいろと考えていたようですが、やはりそれなりにしっかりと活用することで、結果が出た以上、火縄銃は「誰が使っても良い」ではなく、それ相応の人間が扱うものへと変わっていったのです。
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