お宝を探せ! 戦国の埋蔵金伝説①

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「ここほれワンワン!」「お宝ザクザク」。探し当てればウッヒョー!

1日で億万長者になれるかもしれない埋蔵金。

話を聞くだけでワクワクしますよね。

日本にも数々の埋蔵金伝説がありますが、群雄割拠の戦国時代は、敵に渡さないゾ、いつか再起を期す時のため!と、万一のことを考えてお宝を隠した武将も多かったよう。

今回はそんな戦国時代の埋蔵金伝説のアレコレをご紹介したいと思います。

まずは日本の三大埋蔵金とされる豊臣埋蔵金、結城埋蔵金、徳川埋蔵金のなかから戦国時代の豊臣&結城氏の伝説を。

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巨万のお宝、豊臣秀吉の多田銀山埋蔵金

高額なお宝トップは天下人豊臣秀吉の埋蔵金。天正長大判4億5千万両と金塊3万トンとされており、現在の金額に換算すると、200兆円とも!

もはや想像がつかない金額ですが、なんとこれ埋蔵金にしては珍しく、隠した場所が分かっていると聞けばテンションあがりません?

その場所は兵庫県の多田銀山。10世紀に多田満仲によって開かれた鉱山です。秀吉はまだ天下統一前にこの銀山を掌握し、およそ20年の間に7億2300万両の金銀銅を掘り出したと言われています。

ところが1998年、秀吉は突然、銀山を突然閉鎖し、「銀山ばらい」と称してそこに住んでいた人々を立ち退かせました。

なぜまだ採掘できた銀山を閉鎖したのか。それは死期が近いと悟った秀吉がここにお宝を隠したからです。

 

その事実は長い間、隠されてきましたが、なんと現代に突然よみがえります。戦後になって伊賀や大阪から「幡野三郎光照遺書」「清水心竜の巻」「水抜き秘法」などの巻物や数枚の絵図が発見され、ここに埋蔵金が埋められていることが明らかになったのです。

 

秀吉は多田銀山に、軍資金の残りの4億5000万両と大阪城の財宝の一部を運び込み、遺児の秀頼が15歳になって統治を始め、必要になれば取り出すようにと遺言していたようです。

秀吉から命を受けた金山総奉行の幡野三郎光照は、民振竜こと今川賀蔵とともに、「八門遁甲(とんこう)」という方位術を使って21ヶ所に分散して隠しました。

そして作業に従事した囚人らをすべて死刑にして、この秘密を封印します(お宝を隠す時の常とう手段ですね)。そしてこのお宝のいきさつや隠した坑道、坑道の平面図、地下道、その後に掘り出した数量などを記した文書を残しました。

やがて幡野や今川が病気や戦いで亡くなり、この秘密は秘文書のみによって伝えられていきました。

 

その秘密の文書が約350年たって突然現れたのです。まさに現代のおとぎ話ですよね。天下人秀吉の埋蔵金が、場所も分かっているのですから誰でも探したくなります。早速ヒャッホーとばかり、政治家から文人まで各界のトップたちの宝探し狂想曲が始まりました。

ところが残念ながらいまだ見つかっていません。旧坑道は迷路のように入り組んでおり、簡単には分からないようです。台所間歩、秀吉も視察したことがある瓢箪間歩、囚人間歩などが有力とされています・・・。

ただし一説によると、お宝は真田幸村立ち合いのもとすでに掘り出され、薩摩の島津家へ送られたとも。なぜ、島津?と思うかもしれませんが、秀頼は大阪城で死なずに生き延びて薩摩へ逃げたとも言われています。その秀頼のところに送ったと考えられます。

そもそもこの埋蔵金は、あまりに巨額すぎて現実味が乏しいとも言われています。でも天下人で黄金大好きだった秀吉のこと、どこかに巨万のヘソクリを残していてもおかしくないですよね。

 

徳川家には渡さない! 結城埋蔵金

結城晴朝:Wikipediaより引用

かつて結城城(茨城県結城市)を本拠に下総一帯を支配した結城家はかなりの大金持ち。なぜなら鎌倉時代に奥州藤原氏を討伐し、その藤原氏の金銀のほとんどを恩賞としてゲットしたからです。さらに源頼朝から賜った結城地方は関東屈指の穀倉地帯。そのため結城百万石といわれるほど巨万の富を築きました。

 

戦国時代、その豊かな結城家に目を付けたのが徳川家康。家康は豊臣秀吉の仲介で、息子の秀康を結城晴朝の養子に入れます。晴朝は表向きニッコリ笑いながら、心の中では財宝は渡さない!と誓いました。

 

家康が政権を握ると、結城家は越前福井へと追いはらわれます。しかし晴朝は1年間この地にとどまり、膳所主水という家臣に命じて財宝を隠したと言われています。膳所は3つの穴を掘り、2つに財宝を埋め、残り1つにはこの作業をした人夫たちを殺して遺体を埋めました(自分で自分の穴を掘るパターンですね)。

そして財宝の隠し場所を書いた2枚の地図を2つに裂いて、計4つの紙片をそれぞれ4人の家臣に託しました。

 

やがて秀康、続いて晴朝が亡くなると、早速トレジャーハンター徳川が出動します! 膳所主水を拷問しますが地図の事もお宝の場所も言わなかったよう。幕府は「結城家の埋蔵金を発掘する者は罰する」というお触書を出しており、その本気度がうかがえます。

幕府は実力で探し出そうと、藩主の水野氏と共に結城城内を探索します。続いて徳川吉宗が江戸町奉行の大岡越前守に命じて、結城城から少し離れた会之田城址の古井戸一帯を探させましたが、収穫はナシ。

 

あきらめかけていた幕府でしたが幕末、ある絵図の発見により再びトレジャーハントにロックオン。

この絵図発見には次のようないきさつがありました。

地図を受け継いだ4家の一つの分家の渡辺嘉七がもう一枚も手に入れ、下半分の地図を完成させます。しかし嘉七は財宝を狙う他の家の者に殺されてしまいました。

やがて嘉七の娘が見た夢をヒントに、浅草の西福寺の位牌の台座を調べると、「竿金、砂金」など結城家の財宝と思える数量と絵図を記した嘉七の文書が見つかります。

財宝は重さ8キロと7キロの金の延べ棒がそれぞれ2万5000本、30キロ入りの砂金の樽が108個。金の総重量は380トンになり、単純計算でも1兆円以上。ウヒョヒョー。幕府の目の色も変わったでしょう。

今後こそ!と期待をかけて結城市内の小塙を中心に発掘調査が行われましたが、収穫はゼロ。徳川家はお宝を手に入れることができませんでした。

 

大正時代にも水野子爵が結城城址を発掘しましたが、徒労に終わっています。

昭和に入ってからは片岡吾市という人物が宝探しに奔走しました。彼は江戸初期に猟師のなりをした2人の遺品の箱膳から絵図面を発見した治右衛門の子孫。この絵図面を頼りに宝探しに生涯を費やしましたが、発見できず亡くなりました。

 

これだけ探しても見つからない。このお宝、マユツバなのでは?と思うかもしれませんが、どうやらそうでもないようです。嘉七と猟師(4家の者か?)によって一部が発見された可能性があるほか、ごっそり発見されたというえ伝承があります。19世紀初めに会田城址の古井戸から金の延べ棒9000本が掘り出されたと伝えられているのです。

また同じ19世紀に小塙に近い民家の軒先から相当数の小判が見つかったという伝承も。この人物はこのお金を元手に横浜に出て貿易商を開業したと伝えられるので、かなりの金額を手に入れたのでしょう。

お宝が実在した!?としたら、徳川家にお宝を渡さなかったのは晴朝の執念だったのでしょうか。晴朝はあの世でほくそ笑んでいることでしょう。

 

ちなみに晴朝が建てた金光寺の山門に残されている3つの和歌にお宝のありかのヒントが隠されているとも。興味がある人はまずこの和歌を読み解いてみてはいかがでしょうか。

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呪われたお宝? 武田信玄埋蔵金

金と言えば金の茶室を作った秀吉が有名ですが、甲斐の武田信玄も負けてはいません。甲斐や信濃に黒川、中山、保村、諏訪金沢などの金山を持ち、日本で初めて金貨を鋳造。約20年の間に約448キログラムの金貨を作ったとされています。とくに黒川金山は大鉱脈で、鉱脈が牛の形をしていたため「牛の鉱山」とも呼ばれましたが、信玄が使ったのは足の一本分のみでした。

 

信玄は死の直前、重臣で甥にあたる穴山梅雪にひそかに武具をどこかへ運ばせたそう。一説によるとこの時、棒道(ぼうみち)と呼ばれる軍用道路に分散してお宝を隠したと言われています。

ところがこの財宝、数奇な運命をたどります。

梅雪はのちに徳川家康に内通して武田滅亡に協力し、埋蔵金も横どりしたと言われています。しかし梅雪は本能寺の変で落ち武者狩りにあい、命を落としました。

野盗の頭領、浅井家浪人の諸澄(もろずみ)九右衛門は梅雪から奪ったメモと「武功録」を見てピンときます! 「武田の埋蔵金だ」

メモには4つの紋とその下に数字が記されていました。1年後、この紋が東西南北であると解き、そこから数字で距離などをはかり、ついに埋蔵金を見つけます!

その3分の1を持ち出して沼津に住み着きますが、そのことが仲間にバレ、殺されてしまいました。しかし残るお宝のありかを知る者はなく、歴史の彼方へと消えていきました。

 

このお宝伝説まだまだ続きます。

諸澄は生前、家宝の「千馬の槍」の柄の空洞に文書を隠しておきました。

やがて時が過ぎて明治から大正時代、子孫の諸澄吉朗が槍からその文書を発見します。そこには「隠し湯の湧きて流る洞穴を、のぼりて指せや地蔵小坂、朝日夕日月に照る・・・」と続く秘文とともにお宝の数量が記されていました!そのお宝は一説には百億円とも。

隠し湯とは信玄の隠し湯と呼ばれた見延山麓の下部(しもべ)温泉のことと察した諸澄はこの一帯を探し回ります。すると甲府から本栖湖畔を通り、大宮口に通じる富士山麓の国道付近に一枚岩でふたをされた洞窟を見つけたのです。ついにお宝発見!

ヒャッホーと喜んだはずですが、諸澄はこの後こつ然と姿を消します。宝を手にして逃げ出したとも狼に殺されたとも言われています。

 

お宝を発見したのは諸澄だけではありません。

幕末にこの地にすみついた夫婦が埋蔵金を発見したものの何者かに惨殺されています。明治末期には黒川金山のおいらん淵近くの谷で転落死した男がいました。その男の荷物から金の延べ棒が10本とお宝の場所とおぼしき内容が書かれた一冊のノートが発見されます。

お宝を発見した者は命を落とす運命なのか・・・。呪われた?埋蔵金です。

 

ちなみに武田埋蔵金は他にも本栖湖に沈めた、信玄の子勝頼が30万両を新府城に隠した、天目山近くまで運んで隠したなどという説もあり、分散して埋められている可能性が高そうです。

 

地の底に眠る幻の城 帰雲城埋蔵金

世界遺産の合掌造りで知られる岐阜県白川郷。この庄川沿いのどこかに莫大な金銀が埋まっているとも言われています。隠したのではなく埋もれたお宝です。

 

飛騨は昔から金銀銅の産地として有名で、白川郷周辺には横谷、天生、森茂、片野といった9つの金山のほか銀山や銅山がありました。銀閣寺の銀もここから採掘したものと言われています。

戦国時代のこの地の領主は楠木正成の弟の末裔といわれる内ヶ島氏。足利将軍義政の命を受け、金山を採掘するために鉱山奉行として長野からこの地に移り、帰雲城(きうん、またはかえりぐも)を築きました。そして金銀の採掘によって3万石ながら3つの城を築くほどの莫大な富を得たようです。

ところが戦国時代のある日、その栄華を誇った帰雲城、人々、金銀が一瞬のうちに消え去ったのです。

それはなぜか。

1586年11月29日、秀吉に敗れて降伏したものの白川村の本領を安堵された祝宴を明日に控えた日の夜のことでした。

午後11時頃、福井市を震源とするマグニチュード8・1の大地震に襲われたのです。震度7の激震が走ると2000m級の帰雲山が崩れ、ゴオーという地響きと共に凄まじい山津波が庄川を突き抜け、一瞬にして城と300余戸を呑みこみました。数百から数千の人が下敷きになったと伝えられています。こうして帰雲城と村は一夜にして姿を消してしまったのです。

 

やがて奇妙な噂が流れ始めます。この城下では黄金の取引も行われ、秀吉に献上する金も用意されていた、金山から掘り出された黄金も眠っているはず・・・。

その額は5000億円~2兆円とも。

掘り出そうとした人もいましたが、肝心の帰雲城のあった場所が分からなくなっていました。そのため400年以上たった今も埋もれたまま・・・。お宝よりもまずは幻の城を探せ! かもしれませんね。

 

 

まとめ

戦国の夢とロマンを楽しんでいただけたでしょうか?

信じるか信じないかはあなた次第ですが、「きっとあるー」と信じた人が今日もどこかでお宝を探しています。

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