「能ある鷹は爪を隠す」とは、本当の力を隠しておいていざという時に本領発揮するという意味です。戦国時代には、ふだんは馬鹿を演じておいて相手を欺くというやり方がありました。
織田信長などは「うつけ」として、突拍子もない常識外れの行動をし続けましたが、家督を継ぐと大変身、あっという間に天下人直前にまで上り詰めましたよね。
ここに、「うつけ」として名高いもう一人の戦国大名がいます。名前は前田利常(まえだとしつね)。彼は生涯を通じてうつけを演じてきました。
キーワードは「鼻毛」。さて、利常のうつけぶりはどんな感じだったんでしょうか?
鼻毛の殿様に困惑する家臣
江戸時代に入り、太平の世の中になりかけた頃のこと。
加賀藩(石川県・富山県)の家臣たちは、困惑していました。
彼らの主・前田利常が、突然、鼻毛を伸ばし始めたからです。

「面(おもて)を挙げよ」と言われて顔を挙げたら、鼻毛を伸ばした主君が目の前にいるんですよ。笑うわけにもいかないですし、リアクションに困るんです。
もしや、殿は鼻毛が出ているのに気付かないのではないかと考えた者が、あの手この手で手鏡や毛抜きを差し出しましたが、利常はまったく意に介しません。もちろん、鼻毛は伸びたまま。
殿が阿呆になってしまった…!
困り果てた家臣たちを、利常はおもむろに呼び集めると、口を開きました。
「お前たちの言いたいことはわかるが、この鼻毛こそが、加賀(石川県)・能登(のと/石川県)・越中(えっちゅう/富山県)の国を安泰とし、皆を平和に暮らさせる鼻毛なのだぞ」と。
利常は、それがおかしいとわかっていて、わざと鼻毛を伸ばしていたんです。
それには、豊臣時代から一大勢力を誇ってきた大大名・前田家ならではの問題があったからなんですよ。
鼻毛を伸ばすまでの経緯:前田家という立場

前田利家:Wikipediaより引用
文禄2(1594)年、豊臣秀吉の親友で重臣でもあった前田利家(としいえ)の四男として利常は生まれました。利家の晩年に生まれた子であるということもあり、利常は親族の家で育てられ、父と対面したのは、父が亡くなる前年の慶長3(1598)年のこと。彼が5歳の時でした。
翌年に父が亡くなると、兄の利長(としなが)が後を継ぎますが、実子がなかったため、利常が養子に入ることになったんです。当時7歳の利常でしたが、同時に嫁取りまでしたんですよ。お相手は江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)の娘・珠(たま)姫、3歳(!)。政略結婚でしたが、成長しても夫婦仲は円満だったそうなので、よかったよかった。
さて、慶長10(1605)年、12歳で利常は前田家当主となります。当時、誰も対抗できなかった徳川家康に匹敵する領地を誇った加賀前田家の当主ですよ、12歳で!信じられません。
大坂冬の陣では徳川方に付きますが、若気の至りを発揮し、独断で行動した挙句、真田丸の戦いで真田信繁(さなだのぶしげ)にボロクソにやられています。

真田信繁:Wikipediaより引用
しかし、次の夏の陣では汚名返上の戦いぶりを見せましたのでご安心ください。
この活躍に、家康に今までの加賀・能登・越中よりも多い四国地方をやろうと言われますが、利常はこれを丁重に断ります。
これまで築いてきた自分たちの領地を、恩賞という理由で取り上げようという家康の目的もわかっていたからなんですね。
家康も無理に国替えするわけにもいかず、前田家は加賀120万石という巨大な領地を維持したのでした。それは同時に、家康の江戸幕府にとって最大級の脅威となったわけなんです。
鼻毛を伸ばす決心:幕府に睨まれると困る

家康はやがて亡くなりますが、死ぬ間際に見舞いに来た利常に対し、「お前を殺した方がいいと秀忠に何度も言ったが、あやつは聞かなかった。わしに恩を感じる必要はないが、秀忠の恩を忘れるな」と言い残したそうです。
家康は加賀前田家の脅威を存分にわかっていたからこそ、排除すべきだと考えていたようです。利常は、名将で有名だった亡き父・利家に似ていたそうですし…。しかし、秀忠にとっては利常は婿でもありましたから、殺すわけにはいかなかったのでしょう。秀忠自身、とても真面目で穏やかな人物でしたからね。

徳川秀忠:Wikipediaより引用
しかしこの後、秀忠の病中に拠点の金沢城を補修したことをとがめられてしまいます。当時、新規の城の建築は禁じられ、城を補修する時には許可制となっていました。利常が城を補修したことが軍備増強ではないか、と幕府側からいちゃもんが付けられたんですね。
加えて、利常が他国から船をたくさん買い付けていたことも、幕府に対する謀反の兆候ではと言いがかりをつけられてしまったんですよ。これが、前田家の「寛永の危機」という事件なんです。
このままでは家を取り潰されてしまいますから、利常は嫡男の光高(みつたか)を引き連れて江戸に参上し、平身低頭、弁明する羽目になりました。
何とか疑いは晴れましたが、前田家中に激震が走った一件に、利常はさらに危機感を強めたはずです。
加えて、利常は異母兄弟との折り合いが悪く、いつ足元をすくわれるかわからないという状態にもあったんですね。
もうこうなったら、うつけを演じて幕府からも身内からも敵視されないようにしなくてはならん、と利常は考えました。
そして、鼻毛を伸ばし始めたんです。
鼻毛の殿様になったのには、こうした理由があったんですよ。
そこまでやらなくても…鼻毛以外の奇行の数々
鼻毛を伸ばしたこと以外にも、利常はちょっと信じられないような行動で江戸城を騒然とさせました。それによって「利常=うつけ」の評判は高まったわけですが、実は前田家、うつけの血があるようで…。父・利家も若かりし頃はうつけでならしましたし、従兄弟の利益(とします/慶次)も傾奇者(かぶきもの/変人のこと)で有名だったんですよ。
さて、ちょっとした病で江戸城への出仕を休んだ利常。次に出仕した時、同僚の大名から「今日は気が向かれたのかな?」と皮肉を言われます。
ふつうなら、言い返すとかぐっとこらえるとかなんですが、利常は違いました。
やおら袴の裾をまくりあげて股間をさらし、「いやあ、ここが痛くてかなわんのです」と言ったんです。その場にいた大名たち、仰天ですよね。
それでもひとりが「またまた、おふざけを…」と何とか返すと、利常は真面目くさった顔をして、「いや、ちゃんと説明せぬことには申し訳が立たぬゆえ」と答えたそうです。たぶん鼻毛も出てたはずです。
また、ある時、江戸城内に「立ち小便禁止」の立札が立てられたことがありました。きっと、みんなしてたんでしょうね。国は違いますが、フランスのヴェルサイユ宮殿だって、建てられた当時はそのへんでトイレをしてしまっていたそうですから。
さて、その立札を見つけた利常、何とそこに向かって立ち小便を始めてしまいました。立札には「違反したら罰金として黄金一枚」と書いてあったんですが、利常曰く、「大名ともあろうものが、黄金一枚を惜しんで立ち小便を我慢するものか!」ということでした。
確かに、利常の加賀百万石の領地には黄金の産出地も含まれていましたからね…って、そういう問題ではないんですが、やりたい放題の利常を止められる者は、もはや江戸城内にはいなかったようですよ。
ただのうつけではなかった:領地に戻れば名君

後水尾院:Wikipediaより引用
思う存分うつけぶりを発揮した利常は、やがて息子に家督を譲ると隠居します。領地でのんびりと余生を過ごすことにしましたが、親しく交流した相手は、なんと、後水尾院(ごみずのおいん)。上皇様です。というのも、利常の妻と院の妻は姉妹で、2人は義兄弟の関係にもあったからなんです。このおかげで、利常によって京の文化が加賀に取り入れられ、絢爛豪華な金沢文化が花開いたのでした。
また、息子の光高が早くに亡くなってしまったので、孫の後見人となって内政に力を尽くしたんですよ。治水や農業政策に力を入れ、文化を保護し、「政治は一加賀、二土佐」とまで言われるほどの名君として称えられるようになったんです。孫が軟弱にならないようにと、戦国時代を知る者たちを教育係につけることもしました。
やっぱり、うつけは幕府の目を欺くための手段だったんですね。
密かに内に秘めた野心
鼻毛を伸ばし、奇行の数々を演じながらも、利常は内心に野望を抱いていたようです。
息子が金沢城内に東照宮(家康を祀る神社)を建てると、許可を出した幕府関係者には丁重にお礼を述べましたが、息子に対しては、「若気の至りとはいえなんてことをするのだ!もし天下に何かあって徳川が衰えたら、この東照宮どうすんだ!!」と叱りつけたんですよ。
徳川の世に何か起きるかもしれない、もし何か起きるとすれば加賀から…なんて野心があったのかもしれませんよ。
うつけを演じることで幕府の睨みをそらし続けた利常は、万治元(1658)年に66歳で亡くなりました。死後「微妙公」というまた何とも微妙な敬称で呼ばれるようになった利常ですが、これは彼の戒名が「微妙院殿一峯克厳大居士」だからなんですよ。
しかし、微妙なさじ加減でうつけを演じ続けてきた利常、超一流の役者だと思いませんか?
まとめ
- 鼻毛を伸ばす利常に、家臣たちは困惑しきりだった
- 利常が家督を継いだ後は江戸幕府の天下となり、従わなければならなかった
- 鼻毛を伸ばしたのは、幕府からの睨みを弱めるためだった
- 鼻毛以外にも奇行を演じ、おかしなヤツだと思わせた
- ただのうつけではなく、領地に戻れば名君だった
- 内心、徳川家が倒れたらどうなるかと野心を抱いていたかも
利常が鼻毛を伸ばしたのには、ちゃんと理由があったんですね。
それは、前田家を守るという大きな目的のためになされたことだったんです。
家のため、家臣のため、領民のために進んでうつけを演じた利常こそ、名君と呼ばれるにふさわしいんじゃないかと思います。
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