武に優れ、人徳者として知られた加賀百万石の藩祖前田利家。そんな利家のもう一つの異名は算勘(算術)の達人。利家は愛用のそろばんを戦場にまで持参してパチパチはじいていたとか。さらには大名相手に金貸しまで始めてしまいます。そのためケチ、倹約家などと言われますが、その裏にはとっても大きな思いやりの心が。そんな利家の一面をご紹介します。
前田利家ざっとプロフィール
前田利家は、尾張の土豪の家に生まれ、織田信長の小姓から身を興した武将。身長が6尺(約180cm以上)もある長身でイケメン。しかも若い頃は槍の又左と名をはせた武勇と派手な格好で、若い女性たちをキャアキャアといわせたとか。織田家中きってのやんちゃなイケイケボーイだったようです。羽柴秀吉夫婦とは一時お隣同士だったこともあり、生涯の友となりました。
信長から能登一国を与えられ出世し、信長の死後は秀吉に従い、その天下統一を助けます。そして加賀、能登、越中を与えられ、加賀百万石の礎を築きました。秀吉に信頼され五大老の1人となり、秀吉の死後は家康の対抗馬と期待されましたが、関ヶ原の合戦の前年に亡くなりました。
戦場にまでソロバンを持ち込んだ武将
戦国時代の中で勝ち組の一人である前田利家。そんな利家のモットーのひとつが「お金さえあれば世間は怖いものはない」ということ。当時まだ金銭は賤しいものとみなした武将も多い中で、利家はお金の重要性をよく知り、金、金、金とばかりせっせと財テクに励んでいたのです。
そのため利家はケチ、いえ倹約家のやりくり上手、金銭感覚に優れた武将として有名でした。何かあればそろばんを出してきてパチパチはじいていたらしく、算勘の達人とも呼ばれたそう。当時はそろばんが伝来して間もない頃で、今でいうハイテク機器。利家はそれにいち早く目をつけたようです。「願いましては一銭なり」とせっせと練習したのでしょうか・・・。
戦においても武具を運ぶ箱の中に愛用のそろばんを入れて持ち運ぶようになり、戦場で金銀、兵糧、兵員数などを計算するように。
「利家様、敵が来ます!出陣を」「待て。明日の兵糧の計算がまだだ。パチパチ」「やばいですって、早くー」と家臣をやきもきさせたことがあったかもしれませんね。
そんな計算高い利家だから無駄な出費には人一倍厳しかったようです。1596年に京都が大地震に見舞われた時に、利家の次男利政が指揮して前田家の地震小屋を造りました。ところがこれが美麗で立派な建物だったため利家はカンカン。「地震小屋は手軽く壊れなければ良いのだ。金銀をむやみに使えば人のものがほしくなる。お前は一国の主なのだからこころせよ」と息子を戒めています。仮の小屋なのだから雨風さえしのげればいい。変な見栄を張るなといいたかったのでしょう。
貧乏のつらさを知った浪人時代
利家がなぜケチ、いえ倹約家になったのか。それは「金があれば世間は怖くないが、一文無しになれば世間は恐ろしいものだ」と利家が語っているように、お金のない辛さをいやというほど実感していたからなんです。
利家は若気の至りで信長の側近を斬り殺して織田家を出奔したことがありました。信長に許されるまでの2年間の浪人時代は妻子を抱えて、かなり苦労したようです。この時の浪人暮らしで金銭の大切さを身にしみて感じたのでしょう。
信長に仕えてまだ450貫の身上だった頃、たわむれに家臣の村井豊後といくらお金を所持しているか比べたところ、どちらも少なく利家の方が少し多かったそう。しかし利家は、自分のお金はすべて父からもらったもので、豊後の方が金持ちだと嘆いたとか。「家臣に負けるとはー」と利家の倹約魂に火がついたのかもしれません。
人件費をけちって命がけの夫婦喧嘩
ただし、金さえあれば大丈夫! と財テクに走りすぎて利家大ピンチに陥ったことも。
1584年、小牧・長久手の戦いにおいて越中の佐々成政に利家方の末森城が包囲されます。負けられない戦いでしたがこの時、兵士がなかなかそろわなかったのです。
これは困ったと考えている利家のところに、妻まつが金銭の入った袋と金銀の入った袋を持ってきて投げ出します。「金銀をたくわえるより、このお金で家臣を多く雇えとあれほど言ったのに。そろばんばかりはじいてるからこうなるんです。もう手遅れです。この金銀に槍でも持たせて戦いに行けば」と皮肉たっぷりに言い放ちました。
利家は「何だとー」と怒りの形相で刀を抜いてまつに切りかかろうとします。利家の倹約のせいで、命がけの夫婦ケンカ勃発!? の危機でしたが、家臣が利家を押しとどめて事なきをえました。ただしこのまつの発奮?のおかげで利家は戦に勝利しています。
夫の金遣いの荒さに妻がブチ切れ!というのはよくある話ですが、逆に「ケチケチせずに家来を雇え」と妻に言われた利家。よほど財テクのオタクだったのでしょう。
ただし来る江戸の徳川家との戦いに備えて、同じ関東の兵を懐柔しておくために滅亡した小田原北条の一族を召抱えるなど、ここぞという時の使い方も心得ていたようです。
利家流 お金の貯め方
もちろんお金を貯めるためには元手がなくては話になりません。その点においても抜かりはありませんでした。
能登半島の田畑の開墾を奨励し、耕地を拡大。検地については「惣(総)高廻り(そうだかまわり)検地」という手法をとります。実際の田畑の一区画ごとを実測する検地では何年もかかりますが、利家の検地はまず村全体の地図を作り、その地図上において耕地面積を出すというもの。正確さは少し怪しいものの、検地にかかる時間が大幅に短縮され、少しでも早く年貢の取り立てを始めることができます。
しかも年貢を一気に上げるなど前田家の税の取り立ては厳しかったそう。代官や奉行の費用を算出し、意に沿わない代官を罰しました。
羽咋に宝達金山を開き、輪島の素麺座に自由に商売する権利を与えるなど商工業の発達に尽力して収入を増やしました。
これらを元手に現代の投資家顔負けの資産運用でもうけています。
お米は、敦賀の豪商に販売を託して上方のコメ相場でせっせと運用。さらに財産となる名刀や美術品、書画や骨董なども集めたようです。
前田家、金貸しをはじめました。
さらにそのお金を元手に新たな財テクに走ったのか大名相手に金貸しまで始めます。
ただし前田家がため込んでいると知った大名が、軍資金が足りないので金を貸してほしいと頼んできたのが始まりのようですが。
それはそれとしてしっかり利子をとったのが利家らしいところ。そのため「セコすぎる」「守銭奴だ」と親切でお金を貸したのにさんざんの言われよう。しかし利家は平気でした。
なぜなら「彼らはきちんと計算していないからお金が足りなくなるのだ。この利家に利子を取られたらバカバカしいと思い、今度から自分の浅はかさを反省して怠らなくなるだろう。それを知らせるために利子を取るのだ」と家臣に言ったそうです。
セコイだの守銭奴だの陰口をたたかれても平気だった理由。それは別にもうけようと思っ
たわけではなく、大名たちに対する金銭教育だったからなんですね。しかも大名たちに自腹でお金を貸しながら教育するとはさすが戦国大名、実践教育も思いやりもスケールが違い、ダイナミックですね。
そんなのウソだあという声も出そうですが、金貸しについてはここからが凄いんです。
これが金儲けでなかった証として、利家が病の床についた時のこと。大名に貸した借用書をすべて持ってこさせました。その中には伊達政宗や細川忠興らの名も見えます。そして後継ぎの利長に「この人たちが前田に味方してくれそうならこの借用書はすべて破棄せよ」と命じたそうです。死ぬ前に慌ててお金を取り返せではなく、きっちり清算するあたり、律義者利家らしいですね。
利家、涙の遺言決済
そしてもう一つ利家が最後の力を振り絞って実行したのが前田家のお金の管理。利家はお金のもたらす怖さもよく心得ていました。経理を担当する家臣を呼び寄せると、「お前は裏金を作ったことがあるのか」と尋ねます。
「そ、それは交際費などで」
「わかった。帳簿をすべて持ってくるように」と命じます。
家臣は何を言われるのかとびくびくだったでしょうね。利家病死で自分も切腹! なんて場面が頭をよぎったかもしれません。
利家は書類すべて目を通すと、3つのグループに分け、一つ目の束は問題なし、二つ目の束は相談して直せ。3つめはどうにもならないが仕方ないと言いながら全部に自分の印を押しました。そして「これは利家がすべて承知したものだ。だから後からおかしなところがあっても家臣を咎めるな。彼らは前田家のために働いてくれたのだから」と言ったので家臣は涙にくれたそうです。
自分の死後、この書類がもとでお家騒動に発展したり、家臣が罰せられたりしないように心配りをしたのです。
死の淵に至るまで人々に金銭の大切さと思いやりを示した利家。倹約家魂らしい執念を見せた最後といえますよね。
もちろん財テクの方もぬかりなく遺産は2000枚以上(約20億円)の金子をはじめ、美術品や名刀、書といったかなりのものを残していました。これを一族にきっちり分け与えてこの世を去りました。
利家は戦国きっての経済通と言ってもよいのではないでしょうか。若い頃にお金で苦労したからこそ、お金の怖さもそして大切さもよく知っていたのでしょう。金銭面にけじめをつけ、家臣やほかの大名にさわやかな印象を残してこの世を去った利家。お金の使い方でも利家の誠実さが伝わります。算勘の達人人生をまっとうしましたよね。
ただ、利家もあの世まではそろばんを持って行かなかったのか? 利家愛用といわれる縦約7cm、横約13cmの中国式のそろばんが、現代に伝えられています。三途の川の渡し賃、大丈夫だったのでしょうか・・・。
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