美濃のマムシ 斉藤道三の正体とは?下剋上伝説から呪われた城まで

Pocket

美濃のマムシと呼ばれた梟雄、斉藤道三。

僧、商人、武士という3つの職業を経て権謀術数の数々で美濃(岐阜県)の国主へと成り上がったというザ・下剋上の代表的な武将です。

ただし今ではこの下剋上伝説に異議アリ!の声が。

父と子の2代にわる国取り物語だったとされています。

しかも成り上がった道三の最期は、なんと下剋上による非業の死!

今回はそんな斉藤道三の正体とその最期、さらに呪われた岐阜城伝説をご紹介します。

美濃のマムシと呼ばれた斉藤道三。

マムシは毒性が強いだけでなく、母の胎内を破って生まれて出てくるともいわれています。

マムシと呼ばれた道三は僧侶、商人から武士になると、主家を乗っ取り下剋上。

平然と恩のある主家を裏切り、叩き潰しのし上がっていくさまは梟雄と恐れられ、江戸時代からマムシと異名が付けられていたようです。

では道三はどのような生涯をおくったのか。彼は生涯に名前を何度も変えているので、名前に従ってざっとその生涯を振り返りましょう。

スポンサーリンク

峯丸(峰丸)

道三はかつて院の北面の武士(天皇の御所の護衛する武士)を勤めていた松波基宗の子として生まれ、峯丸と名付けられました。

法蓮坊

11歳の時に京都妙覚寺に入り法蓮坊と名付けられます。

かなりの利発者で、書籍を良く悟り、弁舌もうまく、将来は名僧になると評されていました。

松波庄九郎(または庄五郎)

20歳前後で還俗(僧をやめて)して松波庄九郎と名乗ります。

油屋の娘と結婚して山崎屋と称して油商人に。

一紋銭の穴に油を垂らして通すという妙技を披露しながら各国を行商して回り、内乱続きの美濃も何度も訪れました。

ある人物からその腕を生かせばよい武士になれると言われ、武芸を磨きます。

西村勘九郎正利

僧侶時代のつてで美濃の守護土岐氏の小守護代(国主代理の代理)である長井長弘の家臣となり、その有力家臣だった西村の姓を与えられます。

長弘の紹介で守護土岐氏の一族、頼芸(よりのり、またはよりあき)に仕えるようになりました。

1527年に頼芸をそそのかして自らが約3000の兵を率いて守護の政頼(頼芸の兄)の居城川手城を急襲。

不意を突かれて混乱をきたした政頼はわずかに家臣と共に朝倉家に落ち延びました。

頼芸を守護に擁立して長井長弘と新九郎が美濃の実権を握ります。

長井新九郎規秀(新左衛門尉)

しかし1533年頃に長弘が亡くなります。これは新九郎が殺させたとも。

この後、新九郎が美濃を牛耳ることになりました。

斉藤新九郎利政と斉藤道三

1538年には守護代の斉藤利良が亡くなったため、その名跡を継ぎ、名実ともに守護代の地位を手に入れました。

道三に弟を殺された頼芸は道三と対立するようになります。

道三は1万の兵を率いて頼芸の大桑城へと攻め込み、頼芸を尾張へと追放し、ついに美濃の国主になりました。

僧侶から商人、武士と3変化した果てに、恩のある長井氏を殺して乗っ取り、守護代の斉藤氏の名を奪い、最後に頼芸を追い出して美濃の国を奪い取り一国の主になるとは、壮絶な下剋上の一代記ですよね。

父と子二代?

ところが昭和の時代に発見された『六角承禎条書写』(ろっかくじょうていじょうしょしゃ)にこの下剋上を覆す事実が記されていました。

これは美濃の隣国、近江の守護大名六角承禎が道三の死の4年後に家臣宛てに書いた手紙。

その中に道三の実績について触れた部分がありました。六角氏は頼芸と親戚にあたるため美濃の国情には詳しかったと思われます。

要約すると以下のようになります。

  • 京都妙覚寺の坊主で西村を名乗り、美濃動乱で活躍して出世し長井と名乗ったのは道三の父の新左衛門尉
  • 長井家の惣領を殺してその職を乗っ取り斉藤を名乗ったのは道三

つまり僧侶から美濃の国主になったのは道三1人の実績ではなく、父と道三の2代に渡って成し遂げた下剋上だったというわけです。

父子2代説については、江戸時代初期に書かれた『江濃記』にもについて記されていました。それを要約すると

長井豊後守は山城国の西ノ岡から来た浪人。

長井長弘に仕えて台頭し、長井家の執事となる。

斉藤家を追放後は2人で国を治めた。

その子の利政が後を継ぐと長弘を討ち取って斉藤姓を名乗り、自ら美濃半国を治めた。それが道三。

つまり商人から美濃の国主になるまでは父子2代の実績だったというわけです。

では父と子が一体いつ入れ替わったのか?

1533年に道三の父は病気と記された記録があるため、この頃病死したのではないかといわれています。

そして規秀こと道三が登場したわけです。

スポンサーリンク

下剋上の真相は?

整理すると、僧侶から武士になり、長弘と並び、国を動かすほどの力を持つまでに出世したのは道三の父。

そして道三の正体は商人ではなく有力な武士、つまりは美濃の実質的な支配者からスタートした武将だったというわけです。

これを聞くと、商人から戦国大名ではなく、有力武士、つまり支配者からのスタートなんて美濃のマムシの威力も半減・・・と思う人がいるかもしれません。

でも心配無用です! じつはマムシと呼ばれる所業をしたのはやっぱり道三だったようです。

父の新左衛門尉は、商人から武士になり、混乱に乗じて頭角を現し、長井氏と肩を並べるまでになった野心家でした。

しかしそれは才覚と実力でのし上がったもの。

権謀術数を駆使したのも長井氏や頼芸を支えて政権を取らせ、自分も出世するためでした。

ところが道三は違います。邪魔者は消せ!とばかり、恩人も主君も非情な手段で掃討して所領や権力を奪い取ったとみられています。

まず道三が父の跡を継いだとき、美濃は道三と長井長弘の両雄体制でした。

これってどう考えてもお互い邪魔ですよね。

1533年に長弘が上意討ちにされたようですが、これは道三が頼芸に讒言して仕組んだとも言われています。

道三は父を引き立てた恩人を殺害に追い込んだのです。

その11月には道三こと規秀と長弘の跡をついだ景弘がそろって署名した文書が残されています。

ところが翌年には景弘の署名が見当たりません。

つまりこの頃景弘は殺害され、道三がその名跡と所領、さらに稲葉山城を奪ったのではないかと思われます。

これらは不確かな部分も多いのですが、道三はライバルを追い落として美濃の実権を一人で掌握したようです。

こうなると次のターゲットは美濃国主の座ですよね。

頼芸も信頼できる家臣だと思っていた道三の黒い野望に気付いたのでしょう。

2人は対立するようになりますが、道三の方が一枚上手でした。

道三は頼芸の大桑城を襲い、頼芸を追放します。

こうして道三は仕えて支えてきた主君をも追い出して美濃を手に入れたのでした。

ただしその頼芸、さらには政頼の子もあきらめず織田や朝倉、六角と結んでたびたび美濃に攻め入りました。

道三はそれらを撃退しながら、一時は和睦した政頼の子を殺害したとも。

一方で織田信秀と和解し、娘濃姫を信長に嫁がせます。1550年代に入ってようやく美濃を平定しました。

三代目マムシ登場

斎藤義龍:Wikipediaより引用

父が主君の信頼を積み重ねることで成り上がったとすれば、道三はその信頼を食いちぎる形で、美濃国主の座を自らもぎとったわけです。

その最期もまた強烈でした。下剋上で成り上がった道三がまさかの裏切りにあう・・・。

しかも家督を譲った息子の義龍に下剋上(こう呼ぶのが適当かどうかは分かりませんが)されてしまうのです。

道三は1554年頃に美濃の国主の座を長男の義龍に譲りますが、義龍と対立したのか他の息子に跡目を譲ろうと画策し始めます。

道三の画策を察知した義龍は弟2人を呼び出して殺害。道三と対峙します。

15000以上の兵を率いる義龍に対し、道三のもとには約2500の家臣しか集まりませんでした。

道三の強引なやり口に不満を持つ家臣も多く、彼らが義龍のもとに集結して反道三派を結成したのでしょう。

1556年の長良川の戦いで敗北した道三は、死の間際、義龍に向かって

「お前の五体は生きながら地獄行きだ。稲葉山の城に入る者は誰一人生かしておかん」

と絶叫したと伝えられています。道三は首をはねられ、鼻までそぎおとされました。

まさかのマムシ三代目登場ですね。主家を食い破った道三が、息子に食い破られてしまいました。

呪われた稲葉山城

父子2代で勝ち取った稲葉山城と美濃国主の座。

相手が息子とはいえこんな形で奪われることに道三はどうしても我慢できなかったようです。なんと怨念となってこの城にとどまったとも。

この後、稲葉山城は不吉な城になってしまいます。

息子の義龍はその後、5年後に30代で病死。

家督を継いだ義龍の子龍興は織田信長に滅ぼされ、その後20代で討死します。

稲葉山城は信長の居城となり、岐阜城と名称が変わりますが、信長および信長に岐阜城を譲られた信忠は本能寺の変で命を落とします。

その後の岐阜城城主・信長の三男信孝も豊臣秀吉に滅ぼされて自害。

次の池田元助は城主となった翌年、26才で戦死、その次の池田輝政は何とか生き延びましたが、その後も城主となった武将の負の連鎖は続きます。

秀吉の甥にあたる豊臣秀勝は20代で戦病死、信忠の子、秀信も関ヶ原合戦で敗北し高野山へと追放され若くして亡くなります。

ここまでくると戦国とはいえ呪われた城といいたくなりますよね。

しかも道三に殺された長弘、道三、龍興、信長の霊が出るという噂が流れたとも。

この城には入りたくないナ・・・と思っても当然です。

江戸時代に岐阜城を与えられた奥平信昌はこの城を取り壊しました。

いかがでしたでしょうか?

国盗りは父と道三との2代にわたるものでした。

ただし世の中の秩序をぶっ壊してでも自分の野望をつかみとるというアグレッシブに生きた道三は、マムシの名にふさわしい武将だったようです。

息子に下剋上されるというまさかの最期も、そんな強烈な個性が呼びよせたのでしょう。

その道三のシンボルともいえる稲葉山城。この城には道三の執念と勝ち取った栄光、そして怨念が込められていたのかもしれませんね。

 
スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。