乱世の三梟雄と恐れられた武将は前回の斎藤道三、北条早雲、松永久秀と言われています。
なかでも今回ご紹介する松永久秀は、天下の三悪をなしたといわれる悪行三昧のダーティヒーロー。
なんとあの信長から天下の大悪人と皮肉られた武将です。
しかしその信長とは降伏、裏切りを繰り返すというまさに狐と狸のバカ試合を演じ、最後はド派手にやらかしてくれました。
今回はそんな信長対久秀というヒリヒリするような駆け引きを中心に久秀に迫ってみたいと思います。
三好政権で台頭
織田信長が徳川家康に久秀を紹介した際、律儀な家康は久秀に丁寧にあいさつしましたが、信長は
「そんなに丁寧にする必要はない。この人物は主人の三好家を弑逆し、将軍を殺し、奈良の大仏を焼くという誰もしない三つの大悪行をなした男だ」と紹介します。
赤っ恥をかかされた久秀が信長を恨んで、後に裏切った・・ともいわれていますが、久秀も信長もそんなタマではありません。
久秀は天下の悪行こそ勲章とばかり、信長の紹介をリスペクトと受け取ったでしょう。
信長は信長で彼一流のブラックジョーク。他の人が恐れて手を出さないことにも平気で手を出す自分と同類の匂いがする久秀を面白がっていたようです。
松永久秀:Wikipediaより引用
アンチヒーローにふさわしく久秀は実力でのし上がりました。
前半生は商人、土豪出身など言われていますが謎に包まれています。1510年頃の生まれで、信長より20歳以上年上だったようです。
三好長慶:Wikipediaより引用
そんな久秀が乱世に登場したのは40歳の頃。
京から阿波国(徳島県)に勢力を持つ三好長慶に最初は祐筆として仕えたようですが、弁舌と才智でメキメキと頭角を現し、長慶が畿内を統一するのを支え、家老、つまり三好政権の家臣のトップになりました。
もちろん戦陣にも立ち、大和国を支配するばかりか、いつしか将軍の側近ともなり、長慶の嫡男義興とも肩を並べるほどの権威を持ちます。
三好家崩壊
長慶の畿内平定を支えた久秀でしたが、長慶の晩年、じわじわと本性をあらわしはじめます。
長慶の弟たちが次々と亡くなり義興も病死するなど三好家には不幸が一気に押し寄せたのですが・・・。その一因が久秀の謀略だったという説も。
久秀が義興を殺害したとも言われています。
さらに久秀の讒言により、長慶は頼りにしていた弟を謀反の罪で切腹に追いやったのです。
じきに無実であることがわかると長慶は立ち直れないほどのショックを受け、間もなく亡くなりました。
将軍殺害と東大寺の焼き討ち
長慶の跡は養子の義継がつぎますが、実質的な権力を握ったのは久秀と三好家の有力家臣三好長逸、三好政康、岩成友通の三好三人衆でした。
足利義輝:Wikipediaより引用
初めは両者ともに協力して、反旗を翻そうとした13代将軍足利義輝を襲撃して殺害しています。
このとき久秀は息子に襲撃に参加させ、自身は参加していませんが、かかわっていたのは事実でしょう。
久秀と三人衆はじきに対立し、合戦に及びます。
ところがこのとき、久秀は大ピンチに。阿波の三好一族をはじめ三人衆に味方する武将が多く、久秀は孤立したのです。
それでも義継をこちらに抱き込むと、起死回生の一手として三人衆の陣に奇襲をかけました。
それが東大寺! 三人衆は大仏がある以上、ここは攻撃されるはずがないと考えていたようですが、久秀はそんなの関係ねえ~とばかり、東大寺を襲撃しました。
寺の焼き討ちは久秀が火つけたのか兵火が移ったのかはわかりませんが、久秀の悪行だけは広まったよう。
それでも三人衆はしぶとく、久秀は追い込まれます。
信長に降伏
久秀はあともう1枚、とっておきの切り札を残していました。
それが織田信長の上洛です。
こんなこともあろうかと久秀は数年前から信長と連絡をとっていたのです。
将軍一族の足利義昭を擁して上洛をもくろんでいた信長も京都の久秀と親しくすることは渡りに船だったでしょう。
久秀は信長を京都に引き入れると、天下の名器として名高い「九十九髪茄子」を信長に献上して降伏を願い出ます。
ただしこの一手、世間をおどろかせました。
なぜなら将軍義昭にとって久秀は兄の義輝を殺し、自らの命をも狙った最大の敵。義昭にとっては最大の敵が自首してきたようなもの。処刑されてもおかしくない状況だったからです。
でも久秀には信長が自分を殺さないという確信がありました。久秀は信長が情に流されず、役に立つ人材は敵、悪人であろうと徹底的に使い倒す武将であることを見抜いていたからです。
京都が混乱にある今、信長が京都に勢力を張り、内情に通じた自分を切るはずがないと久秀は心得ていました。
はたして信長は義昭を説得し、大和国もそのまま久秀が支配することを許しています。
以降は信長が畿内を平定し、久秀は信長に協力しました。
命の恩人久秀
そんな2人に第二の転機が訪れます。
1570年、信長は越前の朝倉攻めのさなか、義弟浅井長政に裏切られ、背後をつかれます。
このとき、信長はわずか10数人の家来を従えて撤退し京を目指します。その中には久秀もいました。
ところが途中の朽木谷の領主朽木元綱は将軍家の味方。
下手をすればここを通るときに元綱に打ち取られる可能性があり、信長ピンチに陥ります。このとき、自分が元綱を説得すると名乗り出たのが久秀でした。
信長と久秀。2人の間にバチバチっと火花が散ったはずです。
なぜなら信長方はわずか10数人。もし久秀が元綱と組めば信長が不利です。
逆に久秀にしてみればここで信長を討ち取る大チャンス。元綱と組んでその領内で信長を攻めれば討ち取ることも難しくないかもしれません。
信長に従うか、裏切るか。久秀の頭脳が目まぐるしく回ります。
もちろん信長に一生ついていく気はさらさらありませんが、もし信長をうち取って義昭のもとに首を持参した場合・・・。
義昭には憎まれており、自分も討ち取られる可能性があります。
信長は信長で、久秀に任せるしかないという状況でしたが、合理的な久秀が裏切らないと確信があったようです。
結果・・・久秀は元綱を説得し信長に従わせます。信長の偉大さを説いたのか、それとも信長こそが将軍の恩人だと説いたのかはわかりませんが、巧みな弁舌で説得したようです。
こうして元綱を味方につけ信長は京へと戻ることができました。
久秀の裏切り
結果的に久秀は信長の命の恩人になりましたが、その恩人久秀が今度は義昭と和解し信長を裏切ります。
信長の力が強大になり畿内にとって邪魔な存在になったのでしょう。
1572年、久秀は義昭、三好三人衆と組んで信長に挙兵します。
このころ、信長包囲網が敷かれ、甲斐の武田信玄も上洛の途についていました。
信玄の出陣を知り、いまだとばかり反旗を翻したとみられます。
信玄に加えて畿内のキーマンである久秀も反信長についたことで信長は追い込まれたかに見えましたが、ここで大波乱。
なんと信玄が途中で病死し、上洛は中止に。さすがにこれは久秀も予想できなかったでしょう。
久秀は多聞山城が信長勢に包囲されるとあっさり降伏しました。
ところが信長はここでも多聞山城は取り上げたものの久秀を許してしまいます。
巧緻にたけた久秀を生かしておけばまた誰かと組んで引っ掻き回すかもしれないのになぜ許したのか。
久秀は火薬庫のような存在です。
これを生かしておけば、どこに火をつけて回るか・・・。ちょっと面倒ですよね。
でも将軍義昭も追放しため、畿内の抑え、あるいは朝廷との取次役として久秀は必要な人物だったのでしょう。
久秀もまだ俺は使える人間ですよとばかり、しれーと信長に従います。信長の力を利用していずれ大和に返り咲こうと狙ったのでしょう。
日本初の爆死を遂げた武将
信長と久秀、主君と家臣ではありますが、お互いだましあいながら不思議なギブアンドテイク。
ところがその関係が決裂する日が訪れました。
その一因は信長が久秀の持っていた大和の支配権を筒井順慶に与えたことです。
当初、信長は家臣に大和の支配を任せましたが、その家臣が戦死。
すると順慶に与えました。
俺でないの?と久秀はカチンときたに違いありません。
信長の家来ならまだしも、かつて大和を争った順慶の手に移ったということは、もはや信長が自分に大和を託す気がないと悟ったのではないでしょうか。
このとき、久秀は気づきます。信長にとって自分の利用価値がなくなったことを。
信長という男が不要になった武将をどんな目にあわせるか・・・。久秀ならとうに気づいていたはずです。
信長政権では自分の目はないと悟った久秀は、世の中ひっくり返してやるとばかり1577年、またしても信長を裏切ります。
このとき、上杉謙信が上洛してくるという話もありました。
反信長の毛利や本願寺と手を組むと、本願寺攻めから離脱して信長に反旗を翻し、大和国信貴山城に籠城します。しかし信長勢に囲まれてしまいます。
ところがここでも信長は優しさ全開!何とかトラップにかかっているのではないかというくらい優しいんです。久秀に何か通じるものがあったのでしょう。
天下の名器である「平蜘蛛釜」の茶器を差し出せば命を助けると言ってきます。
しかし久秀は、許されたとしても信長政権で一家臣として仕えるのはまっぴら。
「人のしないことをする」
と言い放つと、天守に火を放ち、平蜘蛛釜に火薬を詰めて自身もろとも爆死したと伝えられています。爆死ですよ。
最後まで信長に従うもんか!という意地が感じられます。
その久秀が最後に信長に対し、
「日ノ本一の正直者ゆえ、義理や人情という嘘はつきません。裏切られるのは弱いからです。
裏切られたくなければ、常に強くあればよろしい」
と言い残したとされています。
ここまで言い切ってしまうと逆にあっぱれですよね。
久秀は乱世と呼ばれる世の中でもひときわ劇薬のような存在でした。
どのような波紋や禍を引き起こすかわからないトリックスター。
しかもその根底にあるのは義理や人情ではなく、ただ己の思いのみ。
ある意味その芯の強さが底知れないオーラを放っていたのかもしれません。
そこに同じように常識を破ろうとした信長はひかれていたのかもしれませんね。
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