黒田といったら、大河ドラマの影響もありますし、まあたいていは「官兵衛(如水)」となっちゃいますよね。
でも、その息子もなかなかいい味出してる武将なんです。
黒田長政(くろだながまさ)は父と共に戦国時代を生き抜いて大大名となった人物。
戦に明け暮れたその生涯と、「実直だけど時々キレる」性格についてゆっくり解説していきますね。
父のせいで殺されそうになる
永禄11(1568)年、長政は黒田孝高(くろだよしたか)の嫡男として誕生します。孝高とは官兵衛のこと。出家後は如水となりますが、いろいろ面倒なのでここは「長政パパ=孝高」で統一させていただきますね。
天正5(1577)年になると、長政は当時父・孝高が従っていた織田信長の人質となります。
しかしその翌年、孝高が信長を裏切った荒木村重(あらきむらしげ)の説得に失敗して捕らえられ、戻って来られなくなるという事態になります。信長はそれを寝返りとみなして、長政の処刑を命じました。しかし、そこで竹中重治(たけなかしげはる/半兵衛)が長政をかくまい、偽の首を差し出したことで救われたのでした。
父と歩んだ戦国時代
信長が本能寺の変で倒れた後は、父と共に秀吉に従い、彼の天下統一事業に向けた数々の戦に参戦しています。父・孝高は知謀の士であり野心のある武将でしたが、長政は武勇に優れた実直な武将へと成長していきました。
ただ、九州征伐後に父と共に与えられた豊前中津(ぶぜんなかつ/大分県中津市付近)の地では、土着の豪族の激しい抵抗に遭い、かなりの苦戦を強いられることになります。
その中で、父に授けられた策ともいいますが、長政は敵将を宴に呼び寄せ、家臣もろとも皆殺しにするという荒業をやってのけました。その一族もすべて誅殺した上、人質として預かっていた姫君や侍女まで殺害したというんですから、いやはや…。この時、長政はまだ二十歳そこそこ。とはいえ、戦国武将として非情にならざるを得ない事態だったんでしょうね…。
こんなヘヴィな事態も乗り越え、長政は天正17(1589)年に家督を相続したのでした。
武断派の中心として
秀吉による朝鮮出兵「文禄・慶長の役」にも長政は従軍し、大きな功績を挙げました。
加藤清正(かとうきよまさ)がこの地で虎を退治したなんて逸話がありますが、実はこれ、長政とその家臣がやったことなんですって。
しかし、この時すでに、前線でバリバリ戦う武闘派の武将たちと、主に後方支援や交渉事を担当する裏方の武将たちとの間では、ずれが生じ始めていました。
これが、やがて、武断派(ぶだんは)と文治派(ぶんちは)の争いとなっていくわけです。武断派の筆頭は長政や加藤清正、福島正則(ふくしままさのり)。一方の文治派は石田三成(いしだみつなり)や大谷吉継(おおたによしつぐ)、小西行長(こにしゆきなが)などです。
やがて秀吉が亡くなると、文治派に反発した長政は、徳川家康に接近していきます。なんと、正室を離縁して家康の養女を妻に迎えたというんですから、まあ本気ですよね。
とはいっても元の正室もかわいそう…。実は、これ以後127年間、黒田家と元正室の蜂須賀(はちすか)家は不仲になり、顔を合わせても挨拶すらしない状態だったとか。そりゃあそうですよね。
その後、表面化した武断派と文治派の対立の中で、長政は加藤らと共に三成襲撃事件を起こすなどなかなか荒っぽいことをやっています。
八面六臂の大活躍! 関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦い:Wikipediaより引用
家康の姻戚となったわけですから、当然、長政は関ヶ原の戦いで東軍に参加しました。
ここで彼は「最大の功労者」と家康にほめられる活躍を見せます。
まずは、去就に迷う豊臣恩顧の大名を「こたびの戦は秀頼公に弓引くものではなく、君側の奸(=石田三成)を除くもの。太閤殿下の恩に反するものではない」と説得。まあ、どう見たって後に豊臣家倒すっていうの見え見えなんですが、これで福島正則などは東軍に参加します。
また、戦場では島清興(しまきよおき/島左近)の隊を破り、調略を仕掛けて小早川秀秋(こばやかわひであき)の寝返りや吉川広家(きっかわひろいえ)の内通をプロデュースしました。これが勝敗を分けたんですから、長政の活躍は他の武将よりも際立っていたわけですね。
父に報告したら叱られた
黒田官兵衛:Wikipediaより引用
ということで、家康は長政の手を取ってその功績をたたえ、領地を12万5千石から筑前名島(ちくぜんなじま/福岡県福岡市付近)52万3千石へと大幅にアップさせてくれたのでした。
この後、領地に戻って父・孝高(出家して如水になってますが)に「ほめてもらったよ! 」と報告したんですが、「家康に手を取ってもらっている間、もう片方の手はいったい何をしておったのだ! 家康の首を取るチャンスだっただろが! 」と叱られています。以前にも「お前は考えすぎてやること遅い」みたいなお小言をちょうだいしていたそうですが、父とは明らかにタイプが異なる武将なんですから、仕方ないですよね…。
そんな、長政の実直さが現れていたのが、捕えられた三成への態度。
城門の前にさらされていた三成に対し、福島正則などは罵声を浴びせましたが、長政は三成に「このたびのことは、まことに不幸なことでした…」と声をかけ、自分の羽織を脱いでかけてあげたという逸話があるんです。三成とは仲が悪かったという話もある長政ですが、敗軍の将をリスペクトし労わる心があったんですね。大人のカッコ良さですね。
大坂の陣でかつての家臣と敵同士に
大坂夏の陣:Wikipediaより引用
さて、時は流れて大坂の陣。長政は、冬の陣は息子に任せましたが、夏の陣には自ら出陣しました。
この時、豊臣方にかつての家臣・後藤基次(ごとうもとつぐ/又兵衛)がいました。長政にとっては因縁の相手です。
後藤基次:Wikipediaより引用
というのも、基次は黒田家を出奔していたんですね。
元々、基次は長政の父・孝高に可愛がられていました。しかし、長政とはウマが合わなかったという逸話が多いんです。
文禄の役では、敵将ともみ合って川に落ちた長政を横目に、「こんなんで死ぬならわしの殿ではない」と助けようともしなかったという話がありますし、戦に負けて頭を丸めた長政を見ながら、「負けるたびに坊主になってたら、一生髪なんて生え揃わないし」と言ってのけたという話もあります。これじゃあ長政としては気に入らないですよね。
決定的な亀裂となったのは、禁じられたにもかかわらず、長政と仲が悪い細川忠興(ほそかわただおき/ガラシャの夫)の家臣たちと付き合いをやめなかったことだったそうですよ。
そのため、出奔した基次に対し、長政はブチ切れて「奉公構(ほうこうかまえ)」を出したんです。これは、出奔した家臣を他家が召し抱えないようにと回状を出したんです。これで基次はどこにも仕えることができず、大坂の陣で浪人衆のひとりとして豊臣方に加わることとなったんですね。
これほど厳しい処置をしたんですから、長政の方ではよほど鬱憤がたまっていたんでしょうね…。
実直、時々キレるの話
基本的に真面目な長政ですが、後藤基次に対する奉公構などに見られるように、時折キレることがありました。
母里友信:Wikipediaより引用
ある時、家老の母里友信(もりとものぶ)が、長政の息子に「父君以上の武功を挙げるのですよ」と言ったことがありました。するとそれを聞いた長政は、「わしめっちゃ働いてきたし! すげえ武功あるし! 」と烈火のごとく怒ったとか。いや、それは言葉のあやってやつでは…。
しかし自分でもキレることに自覚があったのか、月イチ程度で家臣と意見交換会を開き、ここでは身分の上下なくモノを言い合えるようにしていたそうです。その時、長政が顔を真っ赤にして怒りそうになると、家臣が「おやまあ殿、お怒りのように見えますぞ」と言い、すると長政は「いや、全然怒っておらぬ! 」と平静を保ったとか。現代で言えばアンガーコントロールをしようと思ってたんですかね。だとしたら、やっぱり真面目です。
そんな長政は、天下泰平の世が訪れた元和9(1623)年に56歳の生涯を閉じました。
その後息子と家臣がお家騒動とか起こしちゃうんですが、もし長政が生きてたらキレて皆殺しとかやりかねないので、知らなくて良かったと思ったりもします。
まとめ
- 人質だったときに処刑されそうになったが、竹中重治に救われた
- 父・孝高と共に戦国時代を生き抜く
- バリバリの武断派として活躍
- 関ヶ原では大きな働きを見せ、家康にほめられた
- ほめられたことを父に報告したら叱られた
- 家臣だった後藤基次には奉公構を出した
- 実直だが時々キレた
長政の兜は長方形の鉄板みたいな形をしていますが、これは福島正則と交換したものだそうです。
竹中重治:Wikipediaより引用
また、それは命の恩人、竹中重治の所有だったとも言われています。
この兜をかぶり、重治の息子を客将に迎えて関ヶ原の戦いに臨んだ長政でした。
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