本能寺で信長に一番槍をつけた男!?のその後、暴れん坊フリーランス参上 安田作兵衛

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戦国時代といえば昨日の勝ち組が今日の負け組! といったジェットコースターのような激しい運命が当たり前です。

本能寺の変で信長に一番槍をつけた安田作兵衛も主君の光秀が滅ぶと、変の戦功者から一転、敗者になりました。

しかしそんな逆風も何のその。負け組ながら、乱世をしぶとくヤンチャに生き抜いた作兵衛。彼のその後を少しばかりのぞいてみましょう。

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本能寺の変で一番槍

本能寺の変:Wikipediaより引用

時は戦国乱世。立身出世を夢見た親友2人が、「今は戦国の世。一方が槍で一国の主となれば、一方を十分の一で召し抱えよう」と約束しました。1人は尾張出身の寺沢広高、もう1人は美濃出身で宝蔵院流の槍の使い手安田作兵衛(名は国継)でした。

 

その後、2人は仕えた主君によって運命が分かれていきます。寺沢広高は羽柴秀吉に仕え、順調に出世していきました。

一方の安田作兵衛が仕えたのは明智光秀の重臣斎藤利三。光秀が主君の織田信長を討った本能寺の変の時も、安兵衛は光秀軍の一行に加わっていました。侍大将だった作兵衛は光秀から信頼を受けていたのでしょう。偵察のため京都に向けて先発を命じられています。一説によると、作兵衛は明智の行動を不審に思った農民たちを斬り殺したともいわれますが、実際は作兵衛の役割は京都の情勢を探る目的だったのでしょう。

 

そしていよいよ光秀軍が本能寺へ。『翁草』では次のように記しています。

塀重門から大庭に乱入したのは、箕浦大蔵丞、古川九兵衛、安田作兵衛。俗に明智三羽烏とうたわれた3人です。

白いひとえをきた信長は自ら弓矢をつがえ「明智の手下どもか。一人一人射殺してくれるわ」と大音声で怒りをあらわにします。その勢いに3人は一瞬ひるみますが、作兵衛は「安田作兵衛」と名乗り、信長に槍で突きかかりました。信長の放った矢を腕に受けながらも、部屋に入り障子を閉めた信長を、障子越しに突きます。

「しめた!」手ごたえがあったので障子を開けようとしたところ、信長の小姓の森蘭(乱)丸に十文字の槍でもって溝へ突き落されます。作兵衛は股を槍で突き刺されますが、それでも槍をたぐって起き上がり、刀を抜いて蘭丸を斬りました。

と作兵衛は信長に一番槍を付け、蘭丸を討つという大手柄を上げました。

しかし光秀はその後、山崎の戦いであっけなく滅亡。作兵衛の出世の夢はあえなく消えてしまいます。作兵衛はけがの治療で山崎の戦いには参戦できず、命拾いしたものの、敗者となり浪人に転落してしまいました。しかも秀吉に信長の仇として追われたため天野源右衛門に改名したといわれています。

一方で、光秀を破った秀吉に仕えていた寺沢はますます出世していきました。

 

羽柴家や蘭丸の兄に再仕官した作兵衛

わずか数日の間に天国から地獄を味わった作兵衛。ここからゼロどころか謀反人の家臣ということでマイナスからの再スタートとなりました。

 

名を変え、姿を隠し、ひっそりと浪人生活・・・かと思いきや、意外にも戦国は裏切りOK!叩き上げの武勇さえあれば仕官先には困らなかったようです。

 

本能寺の変の数年後のこと。明智三羽烏が京都の宿屋で再会しました。

ここで箕浦と古川が本能寺の活躍について自分が一番だと言い募っていさかいになりました。

その時、表の騒がしさに外をのぞくと、今しがた人を斬ったかのような血刀を引っ下げた男が、刀を抜いた男たちに追っかけられています。「よし、こやつを捕まえよう」と作兵衛が2階からおり、古川も飛び降ります。この時、古川は足の悪い箕浦を下すまいと、意地悪してはしごをはずしました。ところが2人に追われた曲者が家のひさしに飛び乗ります。そこを2階に取り残されていた箕浦が「えたりやおう」と組みついて首を討ち取りました。箕浦は「いつも手柄の一番槍はわしが先。本能寺の時もだ」と大口をたたいたと伝えられています。

 

3人とも意気盛んです。作兵衛は槍の名手と名高い上、信長に一番槍をつけた武勇がとどろいてリクルートのオファーが殺到していたのです。

ただし作兵衛は元々の性格によるものなのか、天国から地獄を味わったためこわいものがなくなったのか、ここからの転職人生、はじけっぷりが凄いんです。

 

なんと作兵衛の最初の転職先は羽柴家。秀吉の養子秀勝(信長の実子)、その後は秀吉の弟の秀長に仕えたとされています。秀吉も明智一族ならともかく作兵衛ごときにはこだわっていなかったのでしょう。

秀勝にとって作兵衛は実父信長の敵ですよとツッコミどころ満載ですが、戦国の世にあっては「武功第一」で仇など関係がなかったのでしょうか。

蒲生氏郷:Wikipediaより引用

ところがそんな大切な仕官先も遊女を盗んで羽柴家を出奔。蒲生氏郷のもとに転がり込みました。度量が大きい氏郷は、家臣の反対を押し切ってこれを雇います。氏郷といえばなかなかの家臣思いで情に厚い武将なのですが、作兵衛はここもあっさり飛び出すと、次に何を思ったのか森蘭丸の兄の森長可のもとへ。

森長可:Wikipediaより引用

秀勝、長可といい、ディスってるとしか思えない再仕官先のチョイスですよね。長可は「武功は武功」と言ったらしいのですが、本心はどうだったのでしょう。ところが小牧長久手の戦いで長可が戦死すると、作兵衛は「幼い忠政や森に頭を下げるのはまっぴらごめん」とここも飛び出します。

 

もうハチャメチャですよね。この後、作兵衛のトラブルメーカーぶりはギアがかかります。

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「失敗しないので」と啖呵を切るも・・・

立花宗茂:Wikipediaより引用

作兵衛はまだまだこりません。九州に足を踏み入れ、勇将として知られる立花宗茂のもとを訪れます。この面接で「わたくし安田の取柄は一番槍。失敗しないので一万石ください。」と啖呵を切りました。福島家の槍で有名な可児才蔵でも1000石そこそこ。作兵衛が一万石を望むとは身の程知らずと言いたいところですが、お試しで雇ってみることに。

 

すると作兵衛が活躍する場がやってきました。朝鮮出兵です。この時、作兵衛は秀吉と立花家との間の使者に立っているので宗茂からそれなりに信用されていたのでしょう。

そして碧蹄舘の戦いでは、「一番槍はいただきだ」と作兵衛が単騎駈けだし、一番槍と思ったその瞬間、すぐ後ろにいた十時伝右衛門の槍の先にすっと伸びて敵をグサリ。

一番槍に失敗した作兵衛・・・もちろんすぐにクビになりました。

 

これと前後して福島正則や黒田長政も作兵衛を雇いたいとリクルートしたようです。福島正則は立花宗茂と作兵衛を争い両者の間柄が一時険悪になったとか。

また、黒田家の方では長政が「一万石で雇いたい」と考えますが、父の如水が「うちにはほかにも良い家臣がいるのに怨まれる」と諌めてとりやめになったそう。

黒田如水:Wikipediaより引用

家臣や親せきたちは、自分のところの大将がいつ槍自慢の作兵衛を雇いたいと言い出すかヒヤヒヤものだったでしょうね。

さらに多少前後しますが、秀吉の甥、豊臣秀次にも仕官しました。あるとき秀次から城の普請のため家来を引き連れてくるように命じられます。これに不服の作兵衛は自分の兵に武装させ、普請場へ押しかけると「自分は普請をするような家来は持っていない」と反発、ただちに出奔しました。

一説によると、女好きの秀次が作兵衛の娘を召し出そうとしますが、作兵衛は頑強に拒みました。じつはこの娘は養女で、その正体は光秀の娘だったのです。作兵衛が光秀の娘をひそかに保護していたわけですが、それを知ってもしつこく迫る秀次。これが秀吉の耳に入り、のちのちの秀次切腹につながっていったとも。

ちなみに作兵衛は秀次の屋敷で暴れ、「かかってくるならこいやー」と堂々と去っていたようです。

 

フリーランス生活の終わりと友情 その最期は?

フリーランス先、全部しくじってしまった作兵衛。やはり仕官先では「あの信長様を討った謀反人の家臣か」という色眼鏡で見られていたのかもしれませんね。それでもオファーが途絶えないのはある意味、うらやましいかぎりですが、一国一城の夢は遠のくばかり・・・。

ところがそんな気ままなフリーランス生活にも終わりが訪れます。

作兵衛の目の前に若いころ将来を約束しあった寺沢広高が現れたのです。広高は作兵衛と違い、秀吉にコツコツ仕えて地道に家を守り、なんと唐津8万石の主に。律儀な広高は、10分の1を与えるという約束通り8000石をポンと出して作兵衛を召し抱えたのです。作兵衛は以後、平野源右衛門と名を改め、軍学指南として仕えました。

持つべきものは友ですよね。

さしもの作兵衛も年貢のおさめどきだったのか、友人の寺沢に感謝したのか、やがて出家して天寿を全うしたと伝えられています。

 

あの作兵衛がおとなしく出家? 天寿を全うした? 納得できないというあなたもご安心を。別の説でははじけた作兵衛らしい最期が伝えられています。寺沢家に仕官してからわずか数年後、作兵衛は顔にできものができ苦しめられました。湯治に行っても治りません。そこで、できものを琴の糸でしめあげ、竹の縁に結び付けて足を踏みたて取り除くのですが、すぐにまた腫れてくる・・・。3度もそれを繰り返したあげく、最後は「もういやだっ」とやけを起こして自害したという壮絶な最期も伝えられています。

しかも自害した日は信長の命日だったとか。当時の人々はこれを「信長の祟り」だと噂しあったそうです。

キャー。やはり作兵衛の人生は信長で始まり、信長で終わったのでしょうか。

 

まとめ

信長に一番槍というある意味歴史に残る大仕事をやってのけた作兵衛ですが、その武功がかえって奔放な性格を増長させたのか、ほぼフリーランス生活を送りました。転職で有名な藤堂高虎や水野勝成と違うのは、転職先でしくじり続きだったことでしょう。

でもこれだけオファーが殺到したあげく、仕官しても「気に入らないご主人はこちらからお断り」「やりたいことだけやる!」と自由奔放に生きたフリーランス生活。悔いはなかったかもしれませんね。

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