明智光秀が主君の織田信長を倒した1582年の本能寺の変は、多くの武将の運命を大きく変えました。一番ラッキーだったのは豊臣秀吉、逆に信長の子供たちやほとんどの家臣にとってはアンラッキーだったに違いありません。なかには本能寺の変の直後にほとんどとばっちりとしかいえないような悲惨な運命をたどった武将も何人かいました。今回はその中から津田信澄と河尻秀隆のお話です。
謀反人の子からスタート津田信澄
津田信澄は名字こそ津田ですが、じつはれっきとした信長の甥。彼が織田姓でないのはなぜか。それは父が謀反人だったからです。
信澄の父は信長の実の弟信行(信勝)。

この信行は、うつけと呼ばれた破天荒な信長を嫌う家臣を率いて、2度も兄に反旗を翻します。信長は1度許しますが、2度目の反乱の予定を知ると、自身が病気と偽り城に呼び出して弟を暗殺しました。
よくある戦国大名の兄弟争いですが、信長はなんと一度許していたというのが驚きですよね。
この時、信行の嫡子信澄はまだ幼児でした。信長はこれを許し、殺すことも寺に入れることもなく柴田勝家に預けて養育を託しています。
信澄はれっきとした信長の甥でありながら、謀反人の子としてマイナスからの出発していたのです。そのため織田の姓をはばかって親戚筋の津田と名乗りました。
しかしこの信澄、なかなかの若武者に成長したようです。
奈良の興福寺の僧英俊は『多聞院日記(たもんいんにっき)』で、信澄のことを「一段の逸物」、優秀な人物と評しています。
信長にも目をかけられたようで、馬ぞろえでは信長の嫡男信忠、次男信雄、信長の弟信包、三男信孝に次ぐ5番目の席次を与えられました。
さらに信長の命で明智光秀の娘と結婚するなど、謀反人の子とは思えないような順風満帆。
信澄はこれで謀反人の子という黒歴史も払しょく!と思ったのではないでしょうか。
ところがこの結婚がクセモノだったのです。
信孝に疑われて

織田信孝:Wikipediaより引用
運命の1582年6月1日。信澄は大坂(大阪)にいました。
四国の長宗我部元親を討伐するため、信長の三男信孝を総大将とした遠征軍が編成されており、信澄は丹羽長秀(にわながひで 織田家家臣)らとともにその副将として従っていたのです。
翌2日に四国に渡海する予定でしたが、その深夜から翌日の未明にかけて本能寺の変が起こります。その情報はすぐに大坂にいた信孝の元にも飛び込んできたでしょう。
すると、寄せ集めだった兵士たちが動揺して大脱走。一説には3分の1までに減ったとも。そのため信孝は京都の近くにいながらみすみす光秀討伐という機会を逃してしまいます。
そんな信孝が目をつけたのは信澄。じつは「光秀が娘婿の信澄と手を組んでいるらしい」という噂がすぐに京の町に出回っていました。
数日後には越後の上杉などに「信長は光秀と信澄に討たれた」さらには「信澄が変心して信長が切腹した」というフェイクニュースが流れているので、地元の畿内では光秀と娘婿の信澄が共謀しているフェイクはかなり信じられていたのかもしれません。
焦っていた信孝はこれだと思ったことでしょう。信澄は光秀と共謀しているかもしれない。もし今裏切っていなくてもこれから光秀と手を組む可能性もあるぞ。だって謀反人の子だから。
さらに本音をいえば今後、織田家相続のライバルになり得る信澄がいなくなればいい。
こんな黒い思いもむくむくと頭をよぎったことでしょう。

丹羽長秀:Wikipediaより引用
5日、光秀討伐で出遅れた信孝は信澄を血祭りにあげることを決め、丹羽長秀とある計画を立てます。
この時信澄は滞在していた大坂城にこもっていました。
信孝は大坂城に一度入り、長秀に見送られて出ていきます。その時、信孝と長秀のそれぞれの家臣がいさかいを起こし、長秀の家臣が城に逃げ込むと信孝の家臣もこれを追って城になだれ込みました。
これこそが信孝と長秀の作戦。両家の家臣が一緒に信澄のいる場所を襲撃して殺害したと伝えられています。信澄は謀反人としてさらし首にされました。
今では信澄は光秀と共謀していなかったと考えられています。もし光秀と手を組んでいればその行動に呼応した軍事行動を起こしているはずですが、そんな動きもみられません。
つまり信澄はただ光秀の娘婿というだけで、信孝の近くにいたというだけで殺されてしまったのです。
信澄にしてみれば信孝に裏切られたという思いもあったかもしれませんが、「光秀のおやっさん、そりゃないよ」という心境だったのではないでしょうか。実の父が討ち漏らした信長に認められてここまで来たのに、今度は義父が討つという皮肉。しかもその義父のせいで自分も謀反人の汚名を着せられ命まで奪われたのですから、信長以上に光秀を恨んだかもしれません。
謀反人の子はやっぱり謀反人よねというオチがつくという最期になってしまいました。
織田家3代に仕えた河尻秀隆

信澄は謀反人とされて味方に殺されるという最期を迎えました。一方、河尻秀隆は信長の死により領地の人々(敵方ともいえますが)に惨殺されてしまうという気の毒としかいいようのない武将です。
河尻秀隆という人物を知らない人も多いかもしれません。じつは信長の父信秀に仕えた古参の家臣で、その死後は信長に仕えました。
信長がまだ尾張を統一する前、前述したように弟の信行を殺しましたが、その殺害を実行したのが秀隆とされています。
これだけ重要な役を任されるのですから信頼もあつかったのでしょう。その後は馬廻衆から10人選抜の信長のエリート集団である黒母衣衆の筆頭に位置づけられるなど、信長の側近中の側近ともいえる存在になっています。
信長はこの7つ年上の秀隆のことをよほど気に入っていたらしく、伊勢長島攻めに出陣した信長が「お前のことを心配している」といった手紙を送っています。
一方で嫡男信忠の補佐役に任命し、息子に「秀隆を父と思え」と告げました。信忠からみれば秀隆は「じいや」のような存在だったでしょう。
以降、信忠に従って転戦します。
武田方に寝返った岩村城攻めでは信忠に従って従軍し大きな武功をあげ岩村城を与えられています。
さらに1582年の武田征伐の際には秀隆が信忠家臣団を率いて先鋒として攻め入り大活躍。3月、甲斐22万石を与えられます。つまり旧武田領の統治という大役を任されたのです。
まさに「キター!」。決して派手ではありませんが、コツコツと織田家三代に仕え、信頼を勝ち得た結果、大大名に出世。しかも次世代の信忠の補佐役なので、信長後も安泰!というポジションもしっかり確保しています
頑張ればきっといいことあるさ!というモデルのような出世すごろくですが、そんないいことばかり続くわけないじゃんと思ったあなた大正解。この後に大きな運命が待ち受けていました。まさにこの時の幸せの絶頂は、これから起こる不幸を演出する大きいフリでしかなかったのです・・・。
新しく甲斐の国の領主になった秀隆は徹底的な残党狩りの摘発を行ないました。これは新しい領主の多くがやったことで秀隆がとりわけ残酷だったわけではありません。とくに甲斐は元々強力だった武田家の領地だっただけに、占領側として徹底的にやっておかないとうかうか統治ができないという事情もあったでしょう。
逃げろ!秀隆

本能寺の変:Wikipediaより引用
ところが統治を始めてからわずか2ヶ月余りで飛び込んできたのは本能寺の変。その瞬間攻守逆転のゴングが鳴り響きます。それまで信長の威勢を恐れて我慢して耐え忍んでいた武田の遺臣たちが立ちあがり、国人一揆を起こし始めたのです。
この時、この混乱の状況を心配した、あるいは自らが甲斐支配の野望をもっていた家康は、本多信俊を遣わして秀隆に美濃に戻るよう説得したといわれています。ところが裏で家康がこの一揆をあおっていたという説も。秀隆も家康の野望をかぎ取ったのかこの信俊を殺しました。
一揆の勢いは凄まじく、恐れをなした家来たちが次々と逃げ去ります。残った家来も次々と討ち取られ、ついに秀隆も袋叩きにあってなぶり殺しにされてしまうのです。その遺体は3本組の柱に逆さづりにされました。
ひえー。逆さづりですよ。信長の死はまさにあけてはいけないパンドラの箱。武田遺臣たちにとんでもない大きな力を与えたようです。
秀隆は光秀に「なんてことしくさってくれたんじゃー。ドアホ」と叫びたかったのではないでしょうか。
ただ光秀だって信澄のことはちらっと頭をかすめたかもしれませんが、秀隆のこの結果は「しったこっちゃない」と想定外だったでしょう。
まとめ
光秀が関知していないとはいえ、信澄や秀隆は「本能寺の変」によって殺されたといっても過言ではありません。
本能寺の変といえば、信長信忠父子の死に始まり、秀吉の活躍や山崎の戦い、その後の織田家の後継争いといった表舞台に目が奪われがちです。
でもその裏ではとんでもない方向からのとばっちりを受け、ひっそりと悲劇の生涯を終えた人もいたようです。
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