乱世に暗躍! 伊達政宗の忍者集団 黒脛巾組

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戦国時代と言えば戦闘が勝利を左右しましたが、そんな目に見える戦いの裏ではひそかに情報操作、謀略といった特殊工作が行なわれていました。その裏の戦いで暗躍したのが忍者集団。武田信玄の透破、北条氏の風魔とそれぞれお抱えの忍者が密命を帯びて人知れず影の仕事に従事していました。今回はその中でも、再三にわたり政宗の命を救った!?

奥州の伊達政宗の忍者集団 黒脛巾組(くろはばきぐみ)をご紹介します。

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伊達家にもいた「草」

忍者と言えば、黒装束姿でニンニン言いながら手裏剣を投げたり、ジャンプしたり「ドロン」したりといったイメージが強いかもしれませんね(ニンニンは漫画だけかもしれませんが)。

もちろん忍者は戦闘面でも活躍しましたが、泥臭い地道な情報戦も重要な任務の一つ。敵の情報を探ったり、時には敵方にフェイクニュースを流してかく乱したり、調略、謀略はお手のもの。目に見えない影の働きをしていました。

 

東北の雄、独眼竜政宗こと伊達政宗もそんな忍者軍団を抱えていたようです。

『政宗記』には

「奥州の軍言に、草調儀或は草を入る、或は草に臥、亦草を起す、扨草を捜すと云ふ有。先草調儀とは、我領より他領へ忍びに勢を遣はすこと、是草調儀といへり」とあります。草とは忍者のこと。「草調儀」とは他領へ忍びを潜入させること。この後には敵城から近い順に一の草、二の草、三の草のようのように分けて忍ばせたとあり、それを「草を入る」といいます。「草に臥」は敵の領地に潜入し諜報活動を行うこと、「草を起す」は敵領から出かけていく敵の忍者を討ち取ること、「草を捜す」は自の領地に入り込んだ敵の忍者を見つけ出して討ち取ることを指しています。

 

黒い脛当てが目印だった「黒脛巾組」

そんな政宗が創設した忍者軍団の名は「黒脛巾組(くろはばきぐみ)」。黒ずくめの影の軍団というどこか怖いイメージをもつかもしれませんが、おそろいの黒の脛当てを付けていたためにつけられた名前です。

今回はそんな黒脛巾組の概要と、活躍をご紹介します。

 

『伊達秘鑑』によると、政宗は山賊や夜盗の中で武芸に心得のあるもの50人を選び、柳原戸兵衛、世瀬蔵人を首長(組頭)として、これを黒脛巾組と称し、家臣の安部重定(安定)に統率させたと記されています。

『老人伝聞記』にも、農民などから腕に覚えのある者を選んで黒脛巾組を創設したとあります。50人や30人を一組とし、地元に通じた武辺のものを組頭としました。その組頭は安部、清水沢杢兵衛、逸物惣右衛門、佐々木左近、横山隼人、気仙沼左近の6人。その仕事は戦闘というよりも商人や山伏などに変装して敵国に潜入し、諜報活動や敵の情報かく乱などの特殊活動が中心だったようで、道案内や敵の忍者の探索のほか、兵糧や竹木、武器などの運搬にも携わったようです。

黒脛巾組は、最初は盗賊などを集めて作り、やがて土地を良く知る地元農民などでも構成されていったようです。

 

実際の活動については影の存在のためあくまでも極秘裏に行われ、その実態については明らかにされていません。それでも「人取橋の戦い」や「摺上原の戦い」といった戦闘での活躍がわずかに伝えられています。

それによると黒脛巾組は戦いの勝利を左右したのはもちろん、政宗の命の恩人でもあったようです!

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人取橋の戦い 政宗を大ピンチから救った黒脛巾組

1585年、二本松城主畠山義継によって父の輝宗を殺された政宗はすぐに二本松に攻め込みます。

ところがこれを機に台頭著しい伊達家を滅亡させようと、佐竹氏を筆頭に、蘆名氏、岩城氏、石川氏、白河氏、二階堂氏の南奥州の6大名が反伊達の連合軍を結成して出陣してきました。この時の連合軍の兵力は3万、政宗軍はわずか8500と、まさに政宗大ピンチ!

人取橋で両軍が激突し、人取橋の合戦が始まりました。数の上で優位な連合軍に押されまくる政宗軍ですが、死闘を尽くし何とか踏みとどまります。しかし明日は討死覚悟でと伊達軍が思っていた矢先、驚くことが起こります。

有利だったはずの連合軍が突然、自ら撤退していったのです。これって神風?と思いたくなりますが、佐竹氏の本領が水戸の江戸氏に攻められたため佐竹軍が引きあげ、ほかの部隊も続いて撤退したとされています。

 

ところがこれはあくまでも表向きの理由。その歴史の裏でなんと黒脛巾組が暗躍していたと『伊達秘鑑』は伝えています。もともと政宗は黒脛巾組の太宰金七、大町宮内の報告により、反連合軍が殺到してくることをいち早く知らされていました。

この連合軍、一皮むけばその思惑はバラバラの寄せ集め集団。それに目をつけた政宗が黒脛巾組の安部にある秘策を授けていたのです。

 

連合軍の陣営に潜入した黒脛巾組。佐竹や蘆名陣営には「石川と白河は政宗の親戚なので連合軍を裏切るつもりらしい」というデマを流しました。反対に石川と白河の陣営には、「ほかの大名たちがあなたたちの裏切りを疑い、討伐しようとしているらしいよ」という噂を流します。

事実、石川、白河は政宗の親戚であり、佐竹の威勢を恐れてしぶしぶ連合軍に参加しただけのこと。参加してやっているのに逆に討伐されてはたまりません。そんな不審からか人取橋の合戦でも石川、白河の部隊は戦いに参加せず見物していたと伝えられています。こうなれば佐竹側は石川らが裏切るのではないかと疑心暗鬼。仲間同士が腹の探り合いとなればもう戦いどころではありませんよね。

撤退の直接の動機は江戸氏の急襲でしたが、偽の情報にだまされ混乱に陥っていた連合軍は戦いどころでなく、これ幸いと撤退を始めたのが真相だったのではないかといわれています。

 

連合軍撤退!という報告を聞いた時、政宗は「助かった」と同時に「してやったり」とほくそ笑んだに違いありません。優秀な黒脛巾組のおかげで政宗はからくもピンチを脱し、命拾いをしました。この時、政宗はまだ二十歳前。この若さで、水面下において大軍をかく乱させて撤退させるなど、なかなかの手腕です。昔も今も情報を扱うのは若者の得意な分野だったようですね。

 

摺上原の戦い ある密命 

さらに1589年の摺上原の戦いでも黒脛巾組が勝利に大きな貢献をしています。

 

会津奪取をもくろんだ政宗は、黒脛巾組の太宰金助(金七か)を会津黒川城下に潜入させます。当時会津では佐竹義弘が蘆名氏の養子に入る形で黒川城主になっていましたが、これを不満に思う蘆名の家臣も多く、争いが生じていました。

太宰は会津でこうした内紛の情勢を探りだし、政宗に報告。また、蘆名一族の盛国とその子に内紛を起こさせ、盛国を伊達に内応させることに成功します。

 

あわせて政宗は摺上原の戦いを前に、元は修験者だったという黒脛巾組の大林坊俊海を黒川城に潜入させました。俊海は黒川城の武器の数、人間関係などを探り出し、さらに農民から地形、天候などを聞いて逐一政宗に報告します。

そして決戦の日、政宗は俊海のアドバイスに従って摺上原の東側に布陣し、俊海にはある重大な特命を与えました。

 

戦いは当初、蘆名軍が優勢でしたが、午後になり強い西風が東風に変わると一気に形勢が逆転、蘆名軍は風を受けて押され気味になり敗退を始めます。ところが日橋川まで撤退した蘆名の兵はそこで「えー」と目を疑いました。なんと日橋が焼き落とされていたのです。

そう、政宗は俊海にあらかじめこの橋を落としておくよう命じていたのでした。

 

後ろには迫る政宗軍、目の前は急流。逃げ場を失って総崩れとなった蘆名勢は急流に飲み込まれ次々と溺死。この橋落としが伊達の大勝利につながったといわれています。

 

家督を継いでからわずか数年で奥州を席巻した政宗。その武勇は広く鳴り響きましたが、その勝利には黒脛巾組の暗躍も大きかったようです。

 

秀吉の動静を探りだせ!

このように黒脛巾組は、スパイ的工作も含めた様々な活動で政宗を支えていたようです。彼らはそんなスパイ活動で、もう一度政宗の命運を左右する大仕事をしています。

 

天下人になった豊臣秀吉から再三挨拶に来るように命じられながらも政宗は行きませんでした。やがて秀吉の政宗に対する怒りは頂点に達します。この時、まだ行くかどうか、行くならどうすればよいか迷っていた政宗は太宰金七を秀吉のいた小田原に潜入させ、秀吉の動静を探らせました。太宰からの報告を受けて行かねばヤバイと察知した政宗は、決死の覚悟で秀吉の前に現れ、間一髪、何とか命拾いをしたのです。

 

政宗もヒヤヒヤものだったでしょうが、太宰からの報告で今ならまだ間に合うと考えていたのでしょうね。

このように政宗の大事の時には、その水面下で活躍していた黒脛巾組。もっと仕事をしていたと思われますが、彼らの活動の多くは江戸時代になって記されたもので、戦国時代の史料ではあまり確認できません。それだけ彼らが隠密に徹した忍者だったということでしょう。任務の途中で命を落としても「一切関知しないからそのつもりで」という掟だったかもしれませんよね。

 

 

そんな黒脛巾組ですが、なかにも表舞台で活躍した人もいました。柳生心眼流の祖竹永(長)隼人も黒脛巾組の一員だったとされています。武芸に心得があった彼は江戸で柳生宗矩に師事し、新陰流の免許皆伝を得て、やがて心眼流を開き、伊達藩士に稽古をつけるなどしました。

この柳生心眼流は今も脈々と受け継がれています。黒脛巾組の息吹が今に伝えられていると聞けば、何だか戦国時代が身近になった気がしませんか。

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