南海の果て
右近は重い病床にありました、もう持ち直すことは無いでしょう。自身の命が長くないことを悟った時、右近の心に浮かんだ思いは何だったのでしょうか。
ここは日本を遠く離れた南海の島、ルソン島の中心マニラの街、マニラ総督シルバを始めとした人々の、街を挙げての盛大な歓待を受けたのが数日前。
今はそのシルバが用意してくれた屋敷内の一室に、病の身を横たえています。
手厚いもてなしを受けて、共に日本を追われた一族の者や宣教師、修道士たちに差し迫った危険はありません。
しかし2度と日本へ戻ることは無いでしょう。
洗礼
戦国の世に自らの信仰を貫いた高山右近、幼名彦五郎は、摂津の国高山(大阪府豊能郡)の集落で、天文21年(1552年)頃に生まれました。
父は松永弾正の家臣で、大和国宇陀郡の沢城(奈良県宇陀郡榛原町)城主高山飛騨守友照、その嫡男として生まれた右近ですが、幼い頃の事ははっきりわかっていません。
高山家は芥川城を経て1570年高槻城に移り、その後飛騨守が城主となります。
右近の名前が初めて歴史に登場するのは、彼の父友照がキリスト教に改宗したのち、永禄6年(1563年)に、父に続いて洗礼を受けた時です。
洗礼名はジュスト(寿人)、ポルトガル語で「正義の人、義の人」を表し、この名前の持つ意味が右近の生涯を決定付けました。この頃12歳ぐらいであったと思われます。
この時飛騨守友照は、元琵琶法師でロレンソの洗礼名を持つ日本人を沢城に招き、自身の家族や配下の武士たちに、数日にわたり彼の説教を聞かせました。そして150人もの人々が同時に洗礼を受けたのです。喜んだ飛騨守は、すぐに領内に立派な教会堂を建てました。
その頃の高槻城
天正元年(1573年)右近21歳の時に、父の跡を継いで高槻城主となります。
その頃高槻城を訪れた、ルイス・デ・アルメイダと言うポルトガルの商人は、城下の様子をこう書き残しています。
「この城は高い山の頂上にあり、着いた時はまるで空中にいる心地がした。周囲に植わっている杉や松の木は、極めて美しい。私たちは城内にある会堂に迎えられたが、そこは長さ9ブラサ(1ブラサは2.2m)幅3ブラサ半で、建物は大きくないが中にたくさんの部屋が有った。礼拝堂、聖器所、都から来る神父や神弟その他を迎え入れる部屋など、いずれも杉材で作られ極めて清潔である」
またイエズス会に属するポルトガルのカトリック司祭フロイスは、その著書「日本史」の中にこう書いています。
「高槻領内のキリシタン宗門は盛況を呈し、十字架や教会が次々と建立されている。五畿内では最大の人々が集える教会も作られた。」
1576年には、オルガンティーノ神父の元厳かに復活祭が祝われ、翌年1年間で4,000人の領民が洗礼を受けました。
1581年には巡察師ヴァリニャーノが復活祭を執り行い、その頃には、城下の領民25,000人の内18,000人が、キリスト教に改宗していました。
キリスト教を信奉する城主の元で、キリスト教に改宗した人は良かったでしょう。しかし当然以前からの仏教徒も居たわけで、その人たちの扱いが気になるところです。
厄介なこと
高槻城に在って、領民と共につかの間の平穏な時を過ごしていた右近に、厄介な出来事が持ち上がります。

荒木村重:Wikipediaより引用
天正6年(1578年)の秋、信長の武将で摂津、河内両国を守っていた摂津伊丹守荒木村重が、石山本願寺と結んで信長に反旗を翻したのです。
この背後には毛利輝元が居たわけですが、荒木村重の配下にあった右近は、高槻城を明け渡し村重を裏切るよう、信長から迫られます。

しかし右近の父飛騨守友照は、村重の元に娘や孫を人質に出していたこともあり、村重を見捨てませんでした。
またその人質は右近自身の妹や息子にもなるので、右近も容易に動くことはできません。
信長は村重を裏切らねば、自分の手元に居る宣教師たちを磔にすると通告して来ます。
右近の賭け
騒ぎは京滋に居る宣教師たちをも巻き込んで、グダグダの様相を呈して来ましたが、ここで右近が死を覚悟した賭けに打って出ました。
髷を切り大小の太刀を捨て鎧下の紙子1枚、素足に草履履きの姿になって城を出、信長の陣営に下りました。
武士も城主の身分も捨てると言う覚悟です。
信長の前に引き出された右近は、
「このままの姿で追放して欲しい」
と願い出ます。
しかし信長はそれを許さず、着ていた小袖を脱ぎ与え、吉則(よしのり)の太刀に秘蔵の名馬早鹿毛(はやかげ)も贈り、おまけに2万石を加増した上で、あらためて右近を自身の武将として、高槻城の城主に封じます。
要衝高槻城を失った村重軍は、信長の包囲攻撃に耐えかね退却し、人質も無事に救い出されました。
信長はこの時期、敵将の投降をめったに許しませんでした。
しかし右近の様な、捨て身で一か八かの勝負に出る人物は好きだったようです。
自身と同じ匂いを嗅ぎ取るのでしょうか。
逆に小細工を弄する輩は逆鱗に触れるわけですが。
世は移る

本能寺の変:Wikipediaより引用
右近は信長直参の武将となりますが、その信長が天正10年(1582年)本能寺の変に倒れた後は、秀吉の武将となります。
山崎の合戦、亀山城の戦い、賤ケ岳の合戦、小牧山の戦い、根来征伐と転戦し手柄を立てる一方、高槻領民をあげてキリシタンに改宗させようと努力します。
大阪城で出会う武将たちにも改宗を勧め、黒田孝高、蒲生氏郷、牧村政治らがキリシタンになりました。
ところが、初めは信長に倣ってキリシタンに寛容だった秀吉ですが、段々と様子が変わって来ます。

ついには天正15年(1587年)、伴天連の国外追放令が発せられます。
キリシタン大名たちに対しても
「信仰を捨てるか、大名の地位を捨てるか」
と迫ります。
多くの大名は抗しきれずに信仰を捨てましたが、右近は従いませんでした。
右近追放
天下人秀吉の命令に背いた右近は、領地、居城を失いわずかな従者と共に、淡路島に隠れました。
しかし事は右近1人だけで済むはずも有りません。
同じく改宗した領民、配下の武士、一族にも大きな影響を及ぼします。
右近はそれらの人々の身の上をどう思ったのでしょう。
天正16年(1588年)晩夏の頃、右近の姿は加賀前田家の金沢城下に在りました。
伴天連追放令から1年余、各地をさすらっていた右近に、加賀藩主前田利家が手を差し伸べたのです。

前田利家:Wikipediaより引用
利家が秀吉に
「高山右近なる者、武功の士であるゆえ少ない知行ででも召し抱えたい」
と願い出、許されたとの記述も残っています。
右近に対しては
「金沢へ来たりたまえ、3万石ばかり合力(ごうりき)すべし」
と申し入れました。
対して右近は
「碌は軽くても苦しからず。耶蘇寺(やそでら)の一ヶ寺建立下さらば参るべし」
と答えました。
金沢での日々
こうして加賀100万石前田家の客将となった右近、この地で実に26年の長きを過ごすのです。
その間には、前田家の小田原攻めに参戦したり、秀吉が朝鮮出兵のために築いた名護屋城での茶会に招かれたりしましたが、特に目立った動きは有りません。
おそらく金沢で過ごした日々は、右近の生涯の中でも唯一の穏やかな日々だったでしょう。

前田利長:Wikipediaより引用
やがて藩祖利家は亡くなりますが、後を継いだ利長は
「世上せず(世間に迎合せず)、我等1人を守り、律儀にて、少しずつ茶代を遣わし、情けをかけられよ」
との遺言を守り、より一層右近を厚く遇しました。
最後の旅
慶長18年(1613年)徳川幕府による伴天連追放令が発せられます。
キリシタン信仰を一切認めない事実上の禁教令でした。
このまま金沢にとどまれば、利長が苦しい立場となります。
翌年右近とその一族は、26年間住み慣れた金沢を離れ、京都へ向かいました。
その後大阪から長崎へと船で護送され、トドス・オス・サントス教会に留め置かれます。
幕府は右近の処置を決めかねていたのです。
処刑するのは簡単ですが、それでは右近を殉教者にしてしまい、名声は世に響きます、それは避けたいと。で、選んだのが国外追放でした。

ジャンクや小型船が慌ただしくかき集められ、右近一族はイエズス会宣教師や修道士ら100人とともに、長崎県福田の港からマニラへ向けて放逐されました。
到着までの2ヵ月余りの船旅は過酷を極めたもので、幾人もの死者を出し、63歳の右近にも深刻な影響を与えました。
マニラ到着

出典:Wikipedia
慶長19年(1614年)12月21日、信仰のために俗世の地位も名誉も捨てた聖人として、右近はマニラを挙げての出迎えを受けました。
要塞の大砲は一斉に祝砲を轟かせ、要人はこぞって出迎えの船に乗り、教会は鐘を打ち鳴らします。総督シルバに案内され、儀仗兵が守るマニラ城門をくぐった右近一行。
祝宴の席でシルバより、数件の屋敷と充分な俸禄の提供が申し出られました。
しかし困難な船旅は、60歳を超えた右近の身体を蝕んでいました。
高熱のため床に伏した右近は、それから亡くなるまでの40余日間、何を思ったのでしょう。
信仰を貫き通した誇りでしょうか、自分の勧めで入信した人々が、日本で受ける過酷な仕打ちでしょうか。自分が勧めなければ、穏やかな日々を過ごせたはずなのにとの思いは無かったでしょうか。
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