高山右近は知名度が高いキリシタン武将の一人ですが、2016年1月にローマ法王が正式に右近を福者に認定したことから、現代において再び熱い注目を浴びるようになりました。
福者は、カトリック信者の間では聖人に次いで崇敬を集める存在です。
という訳で、変にツッコミを入れられない圧のようなものを感じつつ、素敵キリシタン右近様の意外な面も書いて行きたいと思います。
高山右近は司祭も驚く押しの強さで周囲の人々に入信を勧め、一部のトモダチ武将からウザがられていたと言われています。
めげない右近は「牛鍋で釣る信者獲得大作戦」に打って出ます。キ
リスト教の教義でハートをつかむのではなく、なんと陣中で牛鍋を作り、ビーフ味で胃袋をつかんでキリシタンワールドに引き込もうとしたと言われます。
果たして、釣られちゃった武将はいるのでしょうか?
1 敬虔な下剋上キリシタン高山父子

心は牛鍋に飛んでいますが、グッとこらえて高山右近のプロフィールから参ります。
高山右近は西暦1553年頃に現在の大阪府北部である摂津高山に誕生したと言われます。
父の高山友照は右近が幼い頃、松永久秀の配下で当初は仏教の熱心な信奉者でした。
キリスト教を嫌悪していた友照は、他2名と共にキリシタンを論破しようとロレンソという洗礼名を持つ元琵琶法師の日本人信者と対面し宗論を戦わせます。
ところが、見事論破されたのは友照らのほうで、熱い仏教徒3名はほどなく洗礼を受け、熱いキリシタンへと変身を遂げました。
中でもダリヨという洗礼名を授かった高山友照は家族や家臣らにも洗礼を勧め、当時12歳ほどだった右近も父の熱狂に巻き込まれるように「義の人」を意味するジュストという洗礼名を持つキリシタンになりました。
キリシタンとしての人生を歩み始めた高山父子でしたが、彼らを取り巻く状況はまさに戦国乱世の渦中といった様相を呈していました。
織田信長が京一帯に勢力を伸ばして来たことから高山父子は織田家臣・和田惟政の配下となり、彼が荒木村重らと戦って討ち死にすると惟政の遺児惟長を支える存在となりました。
ところが高山父子は、彼らの人望を妬んだ惟長に暗殺されそうになり、事前にその情報を察知した高山右近と斬り合いになって、城主惟長のほうが重傷を負って高槻から逃亡することになりました。
この時右近も生死の境をさまようほどの傷を受けましたが、家族らの祈りが天に届いたかのように奇跡的な回復を遂げます。
父に促されるまま洗礼を受けた右近はこの時20歳前後になっていましたが、この体験によって真の信仰心を持つに至ったとも言われます。
謎の多い和田惟長による暗殺未遂事件ですが、結果的に高槻城が高山父子のものとなったことから、荒木村重プロデュースによる下剋上ドラマだったと見る向きもあります。若き日のキリシタン高山右近は、生き残るために必死の典型的な戦国武将でもありました。
2 捨てることで道を切り拓く高山右近
父から家督を譲られ高槻城主となった高山右近は、隠居となってますますキリスト教にのめりこんでいた父と共に領内に教会を建て、家臣領民をキリシタンへと導きました。
そのやり方はかなり強引で、神社仏閣を壊してその建材を使って教会を作り改宗せざるを得ないムードにした上で改宗を促した気配があります。
キリシタンの理想郷を作るべく充実した日々を送った高槻での数年間は、右近の生涯で最も充実した夢多き時期だったと言えますが、その日々は荒木村重が織田信長に謀反を起こしたことで突如暗転します。

荒木村重:Wikipediaより引用
高山父子にとって荒木村重は自分達を高槻城主に据えてくれた恩人のような存在でもあり、右近は村重の元に嫡男らを人質に出していました。
村重が立てこもった有岡城を攻略する上で重要拠点となる高槻城の高山右近を村重から離反させたい信長は、自分に従わなければ畿内のキリシタンを皆殺しにすると脅します。
キリシタンを守るために人質となった我が子らを見殺しにして信長に従うか、我が子らのためにも恩ある村重と運命を共にするかで悩んだ右近は、高槻城も領地も捨てるという形を取って事実上信長に従うことを選びます。
村重は右近の嫡男らは殺さず、やがて自分だけ城から逃れ、ほどなく有岡は落城、謀反劇に終止符が打たれました。城も領地も捨てて信長に就くという捨て身の態度が功を奏して、右近は再び高槻城主に据えられ、再び領内キリシタン理想郷計画を再開しました。
究極の選択を迫られた時、利は捨て去って信念を貫き通すという高山右近の生き方は、この時期に決定づけられたとも言えます。
3 熱烈勧誘でキリシタン武将増加に貢献

本能寺の変:Wikipediaより引用
キリシタンに好意的な織田信長の元、新たな理想に燃えていた高山右近でしたが、その運命は本能寺の変によって再び変転、乱世の荒波に揉まれて行くことになります。
高山右近の元にも明智光秀からの協力要請がありましたが、中国地方の戦場から急遽戻って来た羽柴秀吉軍と合流し、山崎の戦いでは先鋒となって奮戦しました。
その後、賤ケ岳の戦いでは命からがら敗走するなどの曲折も経て、右近は秀吉の陣営で以後も彼の天下取りの戦いに協力して行くことになります。その過程で多くの武将らとも交流し、これと見込んだ人物に熱くキリスト教を勧めるようになりました。特に大坂城下に教会が建てられるや右近の勧誘はますますヒートアップし、大いにうるさがった蒲生氏郷は右近の姿を見ると逃げるほどだったと言われます。
その程度の拒絶では引き下がらない右近の熱いオススメぶりが功を奏して、やがて氏郷は教義の話を聞きたがって右近を追い回すほどになり、ほどなく洗礼を受けたと言われます。
さらに右近は秀吉のブレーン黒田官兵衛をも受洗させ、細川忠興や前田利家も入信までには引き込めなかったものの彼らのキリスト教への好意を高めました。
後年、細川ガラシャ夫人として知られるようになる忠興の妻は、夫が楽しそうに話す右近の熱い教義談話からキリスト教に興味を持ち、のちに受洗を決意するようになったとも伝わります。
それまではあまり熱心な信者ではなかった小西行長も右近に出会ってから真面目にキリスト教に向き合うようになったと言われ、一時はキリスト教でなく高山の宗教といった呼ばれ方をするまでになっていました。
秀吉の四国平定後、右近はそれまでの功によって加増の上高槻から明石へ転封となります。新たな領地でもキリシタン理想郷をを築こうとしていた矢先、右近の運命をさらに激変させる事態が持ち上がります。
4 失意の境遇のはずが牛鍋パーティー

九州平定の祝賀ムードが冷めやらぬ中、秀吉は博多において突如バテレン追放令を発布します。棄教を迫る秀吉に対して高山右近は領地や身分を返上してでも信仰を守り抜くことを宣言します。
地位も財産も投げ出すというのは、荒木村重謀反の折に信長に対して見せた態度と似ていますが、この時のほうが「決断、早!」という印象です。
純粋に利権に固執しない精神性を持っていたと考えられますが、右近からは「今回も何とかなる」といったようなポジティブな空気も感じられます。
実際、一時は秀吉に疎まれて身を隠すことになった右近は小西行長の領地・小豆島に匿われたり、行長が九州へ転封になって以降は加賀の前田家に客将として迎えられるなど、必ず救いの手が差し延べられました。
高潔な人柄で知られ、優れた武将であり築城の才もあった高山右近を招きたい大名家は少なくなかったと考えられます。
領主の努めに煩わされず前田領内での信者獲得作戦に専念する右近からは、大名の地位を失った悲壮感はあまり感じられません。
右近が牛鍋パーティーを行ったのは、秀吉の天下統一集大成の戦とも言うべき小田原征伐の陣中でした。

蒲生氏郷:Wikipediaより引用
招待されたのは蒲生氏郷と細川忠興で、既にキリシタンになっていた氏郷と共に、当時の日本では食材としてタブー視されていた牛肉の美味しさによってグルメな忠興の胃袋をつかむ作戦だったと考えられます。
現代風の醤油はまだ無かったことから、味噌味の牛鍋だったと推測されています。
忠興はビーフ味の虜となったようでその後も何度か右近の陣中を訪れたと言われますが、結果的に忠興本人を信者にすることは叶いませんでした。
右近の牛鍋パーティーの件が秀吉の耳に入らない訳はありませんが、特に問題視されるようなことはなく、秀吉は右近を許していたと言われます。
前田利家をはじめ、秀吉周辺の有力者たちは右近の大名への復帰を働きかけていたされ、四国に漂着したスペイン船乗組員が欧州の領土的野心をうかがわせる発言をして秀吉を激怒させたサン・フェリペ号事件と、その後のキリスト教弾圧がなければ、右近の大名返り咲きが実現していたかもしれません。
5 苦難の運命にも希望を抱いて前進
やがて秀吉が亡くなり豊臣政権の重鎮だった前田利家も病没したことで、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こります。
高山右近は利家の跡を継いだ前田利長の元、いわゆる東軍側として北陸の関ヶ原と呼ばれる一連の戦に参陣しました。
事実上徳川の世になって以降も、右近は前田の客将として金沢で信仰一筋に生きるはずでした。
そんな彼にもたらされたのは、徳川幕府からの国外追放の宣告でした。
大坂の陣を前に、右近が豊臣方のキリシタン兵らと合流するのを恐れた家康が急遽決定したとも言われます。
禁教令が厳しさを増して来た頃、右近は彼を心配した前田利長から形ばかりの棄教を勧められました。
キリシタンでなくなれば前田家の庇護を受け続けられたかもしれませんが、右近の答えは誰もが想像した通り、ただ一筋に信仰を貫くことに定まっていました。

幕府の命令でいったん長崎に送られた右近らはマニラへ向け船出します。
彼らが乗せられたジャンク船は粗悪な造りで、右近の大事な蔵書が浸水した海水によって濡れてしまうほどでした。
船出前は健康だった同乗の司祭が途中で亡くなるほどの過酷な船旅は、金沢を出発した頃から体調が思わしくなかった右近の寿命を一気に縮める結果になりました。
マニラでは右近の名声を知る総督や市民らから熱烈な歓迎を受けましたが、到着からわずか40日後、右近は天へと召されて行きました。
現代における高山右近列福への審査の過程で、刑死などによる殉教ではないことが議論されたたものの、到着後ほどなく迎えた死は過酷な流刑による殉教と同等とみなされたと言われます。
右近自身はマニラに着いてから、日本にいた時以上にのびのびと信仰の日々が送れることを楽しみにしていたように思えます。
傍から見れば不遇な境涯にも、希望を持って自ら歩みを進めて行ったキリシタン武将は、異国の地で永久の眠りに就くことになりました。
まとめ

マニラの人々は高山右近の死を深く悲しみ、盛大な葬儀ののち当時あったイエズス会の聖堂の側に彼の亡骸を埋葬したとされます。
右近の遺骨はその後改葬を経て行方不明となり、わずかに残されていた手がかりも太平洋戦争の混乱で失われてしまったと言われます。
戦乱の日々を生きた右近の遺骨は、のちの世の戦争でも翻弄され消えてしまったことになります。
高山右近はマニラに船出する前、細川忠興に自らの死を予感しているかのような手紙を書き送っています。
それを読んだ忠興が右近との交流の日々を振り返った時、牛鍋の湯気の向こうに見えた右近の笑顔も脳裏に浮かんだかもしれません。
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