千姫事件の坂崎出羽守って宇喜多一族で元キリシタンだったの?

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今回はわりと戦国有名人でありながら元キリシタン武将としての知名度はイマイチの坂崎出羽守を調べます。

坂崎出羽守は、大坂落城の猛火の中から千姫を救い出し恋情を抱くものの、他家へ嫁ぐことが決まった彼女の輿を奪おうと騒動を起こした挙句、切腹に追い込まれるといった創作多めの内容で歌舞伎の演目にもなったことから、やや迷惑な武将といったイメージを持たれています。

「千姫事件の坂崎出羽守」の印象があまりにも強いせいか、彼がかつて宇喜多詮家と名乗り、五大老・宇喜多秀家の年上のいとこであることや、大坂五将の一人・明石掃部ともいとこ同士で、彼を入信に導いた元キリシタンだったことは意外に知られていません。

千姫への略奪愛で暴走した人物が、本当にキリシタンだったのでしょうか?

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宇喜多直家の弟を父に持つ宇喜多詮家

坂崎出羽守として知られる宇喜多詮家が生まれたのは備前と呼ばれていた今の岡山県で、生年は諸説ありますが西暦1563年頃とされ、宇喜多忠家の跡継ぎとして誕生しました。

忠家は宇喜多秀家の父親である直家の腹違いの弟で、のちに三家老と呼ばれる戸川、岡、長船らと共に兄を支える側近の一人となっていました。

 

正面きっての合戦よりも巧みな謀殺によって備前一帯に着々と勢力圏を広げていった宇喜多直家の恐ろしさを物語るエピソードとして、弟の忠家が兄の前に出る時は、暗殺を恐れて密かに鎖帷子を着込んでいたというものがあります。

真偽のほどはさだかではありませんが、常にある程度の緊張感にさらされる家中であったことがうかがい知れます。

 

宇喜多詮家が宇喜多の将として活躍し始めたとおぼしき時代、備前一帯には東西の二大勢力が激突しかねない不穏な空気が高まっていました。

東からは天下統一を狙う織田軍として羽柴秀吉の軍勢が押し寄せ、西からは中国地方の覇者と言われる毛利家が織田軍を迎撃しようと宇喜多領近くまで出陣していました。

その最前線となったのが後世に名高い水攻めが行われた備中高松城です。

織田軍に属して兵を出していた宇喜多ですが、備中高松は本拠である岡山から現在電車で20分ほどという近さだけに、織田と毛利の戦は宇喜多家の運命を決める戦でもありました。

 

秀吉の天下取りに協力した宇喜多軍

本能寺の変を知った秀吉は毛利方には信長の死を伏せたままで慌ただしい講和を成立させ、備中や備前にそれ以上の戦火は広がらずに済みましたが、信長の後釜を狙い天下への野望をあらわにした秀吉の戦いに、宇喜多家はその後も協力を続けることになりました。

この時期すでに宇喜多直家は病気で亡くなった後で、跡継ぎの秀家はまだ10歳ほどだったことから宇喜多の政務や軍務は詮家の父・忠家や三家老、そして忠家の妹の夫ということで血縁ではないものの詮家にとってはおじにあたる明石行雄が担っていました。

この明石行雄の長男がのちの明石掃部です。

 

秀吉が織田家から権力を奪い取り、信長が果たせなかった天下統一に向けて四国や九州に展開させた軍勢の中でも、宇喜多軍は重要な位置を占めていました。

宇喜多秀家が秀吉お気に入りの準一門として京や大坂で華やかな日々を送るかたわら、宇喜多詮家のほうは父・忠家と共に戦場で采配を振るう機会のほうが多かったと考えられます。

武将としての功績を上げながらも年下のいとこ秀家のラッキーとも言える栄達ぶりを複雑な目で見ていたかもしれません。

実際、宇喜多詮家と秀家はいとこ同士とは言え仲が悪かったと伝わっています。

同じいとこでも明石掃部のほうが、宇喜多詮家にとってはいい感じの親戚づきあいができる相手だったことが、二人のキリシタンとしてのエピソードから浮かび上がってきます。

 

暴走キリシタン宇喜多詮家の熱烈勧誘

宇喜多詮家がキリシタンになったのは西暦1595年で日本では文禄4年、秀吉が朝鮮に兵を送った文禄・慶長の役が講和の交渉に入っており、大陸に渡った武将たちもいったん日本に引き揚げていた時期でした。

宇喜多秀家は文禄の役では総大将だったこともあって重臣たちの多くも出陣し、宇喜多詮家も父と共に渡海したと考えられます。

大陸での苦しい戦いは多くの武将たちの心身に少なからぬダメージをもたらし、癒しを求める風潮が強まったところへ、ちょうど布教の盛り返しを本格化させていたキリスト教が時流に乗って人々を魅了するようになっていました。

そのブーム再来に乗せられたかのように教会を訪れ、洗礼を受けたのが宇喜多詮家でした。

宣教師たちは宇喜多の有力者である詮家の入信を喜びましたが、パウロという洗礼名をもらった詮家はキリシタンとなった自分を周囲にアピールしたくてたまらなくなったのか、自らの大坂屋敷の目立つところに金色の十字架を飾り、キリシタンらを困惑させました。

 

当時、秀吉が数年前に出したバテレン追放令がやや緩んでいたものの、表向きは禁教下だったからです。

詮家は自分がハマったキリスト教ブームに親しい人を引き込みたくてウズウズしていたようで、その熱狂ぶりに巻き込まれてしまったのが明石掃部でした。

彼は宇喜多詮家からの再三の誘いにも軽々しく乗らず冷静な対応を続けていましたが、ついに洗礼を受け、ジョアンという洗礼名を授かりました。

秀吉に近しい宇喜多一族の有力者が二人もキリシタンになったことから、元々ザル法と言われていたバテレン追放令がこの時期さらに緩くなっていたことがわかります。

キリシタンにとっては雪解けの到来に思えたのもつかの間、四国に一艘のスペイン船が漂着したことから、キリシタン受難の時代が本格的に幕を開けることになりました。

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宇喜多家やキリスト教との決別

嵐によって四国に漂着したスペイン船の乗組員による、宣教師が派遣された地では彼らの布教から植民地化が開始されるといった証言を伝え聞いた秀吉は、京や大坂の主だったキリシタンを捕らえ処刑することを決めました。

熱血キリシタン詮家は明石掃部と共に大坂のある屋敷に潜伏していた宣教師を脱出させます。

この時明石掃部に同行したのは詮家でなく別の人物だったとも言われますが、関ヶ原の戦いが始まる少し前、詮家が宇喜多家を去ることになった頃も彼はまだ熱血キリシタンだったと考えられます。

 

照り輝いていた秀吉の栄華の恩恵を受けていた宇喜多家は、秀吉の死によって影の部分が色濃く浮かび上がるようになっていました。

長年秀吉に付き従ったために疲弊した軍や、かさんだ遊興費などへの家臣領民の不満が高まり、一族内や重臣の間からも当主秀家への非難の声が上がりました。

ついに宇喜多家中騒動と呼ばれる内紛が起こり、数名の重臣が家臣らを連れて宇喜多から離れる深刻な事態となりました。

その中には宇喜多忠家・詮家父子の姿もありました。

元々秀家と反りが合わなかった詮家は、当時豊臣家から権力を奪うためにさまざまな手を打っていた徳川家康に取り込まれて行きます。

宇喜多家中騒動の原因は未だに謎の部分が多いとされますが、家康が背後で内紛をあおっていたとしてもおかしくありません。

関ヶ原の戦いは宇喜多の戦力が家中騒動で分断された時点で、西軍に不利な条件が一つ増えていたことになります。

 

関ヶ原の戦いののち、詮家は現在の島根県に領地を得て宇喜多の姓を捨てて坂崎出羽守直盛と名乗るようになりました。一説には家康が宇喜多の名を嫌ったためと言われます。

坂崎出羽守となったパウロ詮家が、かつて熱狂したキリスト教をいつ捨てたのかはっきりしませんが、禁教を強化させつつあった家康の意向を察知して宇喜多の姓と共に捨て去ったのかもしれません。

 

縁者を改易や処刑に追い込んだ執拗さ

坂崎出羽守直盛と改名し津和野の領主となっていた宇喜多詮家は、関ヶ原の戦いから5年後、ある騒動に関して坂崎出羽の要求を拒絶した親類の大名を幕府に訴えるという騒ぎを起こします。

富田信高:Wikipediaより引用

訴えられた富田信高という人物は坂崎出羽の姉婿にあたる人物で、坂崎は家中での色恋沙汰から起こった惨殺事件の犯人を富田信高がかくまったまま引き渡さないことで不満を爆発させていました。

犯人とされた人物は実は坂崎のおいにあたり、富田の妻になっていたおばを頼って富田領に逃げ込んでいました。坂崎は自身のおいを捕らえるために姉の夫を幕府に告訴したことになります。

坂崎のおいはどうやら坂崎自身のお気に入りの小姓か側女と密通したらしく、それを怒った坂崎がを家臣に命じて愛人を成敗し、おいのほうは成敗を実行した家臣を斬って逃亡しました。

詳細はさだかではありませんが、愛人らしき人物がいたことを考えると、一夫一妻の貞潔を誓ったキリシタン宇喜多詮家だった頃の面影は、その時期の坂崎出羽守直盛からは消え去っていたと考えられます。

おいの所業からも家中そのものが乱れた雰囲気となっていた様子がうかがえますが、身内のゴタゴタを訴え出られた家康はかなり困惑したようで、隠居となったことを理由に訴えの件は秀忠に任せ、事実上坂崎の迷惑告訴をスルーした様子がうかがえます。

 

キリシタンの面影はなくしていたものの、熱血ぶりはそのままだった坂崎出羽はそれを悪いほうに発動させ、その後も自分の願いを拒否しておいを引き渡さなかった富田を憎み続け、約8年後ついに富田の罪を幕府に認めさせ、改易に追い込むことに成功し、おいの処刑も実現させました。

自分の思い通りにならないことには怒り狂い、自分の縁者さえも破滅させずにはいられない坂崎出羽の異様な執拗さがうかがえるエピソードです。

 

千姫をめぐる意地と執念が招いた自滅

千姫:Wikipediaより引用

関ヶ原の戦いから15年後、ついに徳川家康の宿願だった豊臣家滅亡が大坂落城によって実現します。

心配の種となっていたのが豊臣秀頼の妻ということで事実上の人質となっていた孫娘・千姫の救出です。

それを無事成功させてくれたのが坂崎出羽でした。

千姫を徳川方に引き渡すことで秀頼やその母淀殿の助命を考えた城方が坂崎出羽の陣に千姫を送り届けたいうのが真相に近いようで、歌舞伎などで描かれるように、千姫を救出した者は彼女と結婚できるという話に坂崎が発奮して、落城の炎の中やけどを負いながら千姫を救出というドラマッチックな展開ではなかったとされます。

その後千姫が他の大名と再婚することが決まり嫉妬の炎を燃やすというのも、50歳以上となっていた坂崎と20歳前の千姫の年齢差を考えると現実的ではないとも言われますが、熱血坂崎の場合、千姫への恋情に燃える展開はありえなくもない印象もあります。

千姫事件の真相に近いとされるのは、姫の再婚先の選定を家康から依頼され公家との縁談を取りまとめた坂崎が、急に千姫が他の大名家に嫁ぐと決まったことで面目をつぶされたと思い、姫の輿を奪おうとしたという説です。

いずれにしても自分の思惑とは違った展開に我慢がならなかった坂崎が、かつて縁者を破滅に追い込んだ時と同様暴走した挙句、今度は自らの執念で自滅したとも考えられます。

坂崎の無謀な千姫略奪計画は幕府に露見し、彼は切腹を迫られることになりました。しかも素直に腹を切ったわけではなく、お家存続を第一に考える家臣に討たれたという説や、旧知の間柄だった柳生宗矩に説得されてやっと切腹したという説もあるなど、真相はどうあれ最後まで悪あがきした気配が感じられます。

関ヶ原の前に宇喜多を離れて勝ち組になったはずの坂崎は、泰平の世が幕を開けたとたん、かなり残念な最期を迎えたことになります。

 

まとめ

坂崎直盛像:Wikipediaより引用

千姫事件の真相は、坂崎が探した姫の再婚先が無視されたことによる暴走という見方が有力視されるようになっています。

けれども彼のそれ以前のやらかし歴からは、略奪愛の野望もありだったかもしれないと思わせる、妙な熱気が感じられます。

キリシタン宇喜多詮家だった人物は大坂の陣の頃には影も形もなく、俗世の妄執に生きる坂崎出羽守になり果てていたことになります。

豊臣方として戦い、最後まで敬虔なキリシタンであり続けた明石掃部とは、まさに正反対の生き方を選んだ後半生だったと言えます。

坂崎出羽守は、自分がキリシタンへと導いた明石掃部の姿を、遠く敵陣から眺めることもあったのでしょうか。

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