大友義統は宗麟の息子なのに入信後すぐ棄教?官兵衛を恨んでた?

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大友義統は一時は九州北半分のほとんどの地域を支配下に置く名門大友家に生まれ、父宗麟から早い時期に家督を譲られ当主になりました。

キリシタン大名として有名な宗麟ですが実際に入信したのは隠居後ということで、義統もキリスト教が身近にある日常を過ごしながらも入信することはありませんでした。

義統の母である奈多夫人が大のキリシタン嫌いだったからです。

彼女は宣教師達からも恐れられ、旧約聖書に登場する弾圧者になぞらえてイゼベルと呼ばれており、宗麟がキリスト教に憧れながらも入信まで約30年かかったと言われるのは奈多夫人の存在のせいとも言われ、彼女を離縁してやっと洗礼を受けました。

時を同じくして大友家には急速に衰運が押し寄せます。

奈多夫人にしてみれば宗麟のキリシタン狂いが招いた悪運といったところになりますが、実際に大友家衰亡を加速させていたのは彼女の愛息子義統でした。

彼の判断ミスの数々が名門大友家を傾かせて行きますが、自分の悲運は黒田官兵衛のせいと考え逆恨みしていた節もあり、キリシタン武将というよりやらかし武将としての描写が多めになりそうです。

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官兵衛の勧めで洗礼を受けた大友義統

黒田官兵衛:Wikipediaより引用

大友義統は西暦1558年生まれで、キリシタン嫌いの母親の影響を受けながらも幼少時からキリスト教が身近にある生活を送りました。

義統は元服間もない頃に父宗麟から家督を譲られますが、実権の大半は父親が握っている状態で、その二頭体制は家臣団に亀裂も生じさせていました。

九州の運命を変え大友家衰運を加速させたと言われる耳川の戦いの原因も敗因も父子間の交流が上手く行っていなかったことと、家臣団の不和が根底にあると推測されています。

耳川の戦いで島津軍に敗れた大友家は以後、転落の一途をたどることになります。

一説にはキリシタン王国の建設にこだわった宗麟が招いた戦と言われますが、既に家督を譲られ名目上は当主となっていた義統が島津に仕掛けて始まったというのが実情と考えられています。

後世の目から見れば明らかに義統の判断ミスですが、彼はその後の人生でも幾つかの重要局面で、名門大友家の未来を自ら閉ざすかのような選択をして行くことになります。

 

義統自身がのちに判断ミスと自覚したと推測されるのが、黒田官兵衛の誘いに乗ってキリシタンになったことです。

官兵衛は秀吉の九州の陣で軍目付として義統と会い熱く入信を勧め、義統は洗礼を受けコンスタンチノというキリシタンになりますが、3ヶ月後に秀吉が出したバテレン追放令に従って棄教します。

義統にしてみれば官兵衛の口車に乗って危うく秀吉の不興を買うところだったと考えたようにも思えます。

その3年後、義統はある神社に官兵衛への悪口を書きまくった願文を奉納し、官兵衛討伐の戦勝祈願を行っています。官兵衛は九州の陣の功で大友領のお隣さん領主として今の大分県の北部や福岡県の一部である豊前に入りますが、義統にしてみればかつての自領の一部を官兵衛に侵食された思いだったはずです。

 

イゼベルの息子らしく生きる大友義統改め吉統

大友義統は名目上大友家を救援に来てくれた羽柴秀吉に忠誠を誓い、彼から一字を貰って吉統と改めました。

秀吉政権の元で彼が行った九州の領土再編にも従うしかなく、黒田官兵衛の豊前入封も秀吉の決定ですが、吉統としては秀吉を恨むわけには行かず不満の矛先が官兵衛に向いて行ったとも思われます。

官兵衛が吉統を入信に導いたのはイゼベルの息子として母の意向を尊重し領内でキリシタン弾圧を行っていたのを止める意味もあったと言われます。

吉統の入信は大友宗麟が亡くなる直前で、息子の入信を喜びながら逝去したとも言われます。

母親のイゼベルこと奈多夫人も少し前に亡くなっており、吉統の入信を妨げる要因が減っていたとも考えられますが、バテレン追放令でさっさと棄教して以降、相次いだ両親の死や自身の不遇がキリスト教入信にあったと考えたとしても不自然でなく、巧みな弁舌で入信に誘った官兵衛を恨む要因の一つになっていたかもしれません。

吉統が官兵衛への悪口を書き連ねた願文を奉納したのは地元の由緒ある神社で、3年前3ヶ月だけキリシタンだった吉統はイゼベルの息子らしい行動をとるようになっていました。

 

一方、秀吉政権下の九州大名には、天下統一後ある使命が課せられます。

秀吉の大陸進出の野望を叶えるため異国の最前線で戦うことでした。

九州の陣後新たに各国領主に据えたのは小西行長や加藤清正、黒田官兵衛・長政父子など大陸での戦いを有利に進めるために秀吉が最適とにらんだ人選でした。

そこにたまたま地元の名門武家として大友吉統が居たことになり、それ自体が吉統にとって最大の悲運だったとも考えられます。

 

ヘタレ過ぎる判断ミスで最悪の展開に

多くの戦国武将が過酷な体験をすることになった大陸での戦いに大友吉統も駆り出されることになりましたが、よりによって吉統が目の敵にしている黒田官兵衛の息子長政の軍と行動を共にすることになります。

黒田長政:Wikipediaより引用

長政は秀吉の手前棄教したことになっていましたが、父官兵衛が信仰を守り続けていたため一応まだキリシタンといった立場で、官兵衛憎ければキリシタンまで憎かったであろう吉統にはダブルで面白くない状態だったはずです。

小西行長:Wikipediaより引用

しかも吉統はもう一人のキリシタン武将小西行長のために、悲運のどん底に追いやられることになります。

少し前までの快進撃が祟ったのか朝鮮軍の抵抗に苦戦するようになっていた小西行長はある戦で吉統を含む複数の武将らに援軍要請します。

兵力不足を理由に一同が行長の要請を断ったため行長は苦労しながら撤退しますが、撤退した先で合流するはずだった吉統は既に別の場所に移動してしまった後で、大友軍のサポートを当てにしていた行長は呆然となり後日秀吉に、肝心な時に吉統が逃亡していたという報告をします。

ヘタレ大逃走と認定されることになった吉統の行動は、行長討ち死という誤報を鵜呑みにし動転した吉統の判断ミスからでしたが、行長を加勢しなかったばかりかさらに怖がって逃亡した非常に恥ずべき臆病者として秀吉は激怒、吉統に改易を申し渡します。

バテレン追放令であっさり棄教し以後はキリスト教から背を向けてまで秀吉に尽くして来た吉統は、キリシタン行長を救援しなかったという罪で国も身分も失う羽目になりました。

 

改易されてからの吉統はわずかな供回りで毛利輝元に預けられ今の山口県である周防国で蟄居を命じられ、息子義乗はいったん加藤清正に預けられたのち徳川家康の監視下に置かれ、領国豊後は秀吉の直轄領となって家臣らも散り散りになって行きました。

吉統は鎌倉以来の名門大友家を自滅させた宗麟の不肖の息子として歴史に刻まれることになってしまったのです。

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チャンスをピンチに変えた吉統の関ヶ原

大友吉統の改易後の動向は明らかになっていませんが、毛利輝元の元で起死回生の機会をうかがっていたと言われます。

秀吉の死で混乱するなか毛利家の監視が甘くなったのか、吉統は京や大坂に出没するようになり、関ヶ原の折には豊臣秀頼から故郷豊後の一部を領有を許され、健気に主君の帰りを待っていた家臣らと合流すべく九州を目指しました。

天下分け目の関ヶ原をめぐって全国レベルで起こった混乱に乗じて大友家再興のチャンスを得たと吉統は内心浮かれる思いだったと推測できますが、徳川家の手の中にある息子義乗の立場を考えず、吉統は事実上の西軍側となって九州入りしたことになります。

 

九州では息子長政が主力軍を率いて出陣した後の留守を守っていた黒田官兵衛が、野望をたぎらせ兵を募り軍勢を整えていました。

関ヶ原の主戦場での戦いが一日足らずで終わらなければ九州全土を掌握したのち毛利領に侵攻する目論見もあったと言われるほど、官兵衛の謀略人生集大成のような体制が整えられていたところに、大友家再興で浮かれ気分の吉統が飛び込んで行った構図だったとも言えます。

豊後の一部とは言え名目上の領有権を回復し名門大友家の殿・久々のお国入りといった風情の吉統へ、官兵衛は西軍に就く不利を説く書状を送り味方になるよう説得します。

ある意味それを受け入れて東軍側になるのが吉統の最後のチャンスだったとも言えますが、官兵衛嫌いの吉統は一蹴し、ほどなく九州の関ヶ原最大の戦いと言われる石垣原の戦いになだれ込んで行きます。

後世の目から見れば希代の軍師と呼ばれるほどの官兵衛にヘタレ武将の烙印を押されている吉統が正面切って戦うことを選ぶという、ここでも大いなる判断ミスをかましたことになり、結局は関ヶ原の混乱というチャンスを自らピンチに変えてしまう結果を招きました。

 

最期の地もはっきりしない大友義統

大友義統:Wikipediaより引用

石垣原の戦いは後世の知る通り黒田官兵衛の圧勝に終わり、吉統はここでもヘタレぶりを発揮、敗戦後も立てこもっていた城を枕に討ち死にという道ではなく、官兵衛の降伏勧告に従えば命は助かると考え、お家再興のため共に戦ってくれた家臣らを見捨てる形で降伏しました。

次に官兵衛が攻めた城の城主は自分の命と引き換えに兵らの命乞いをし、官兵衛はその心意気に感じ入って城主をはじめ一人の命も奪いませんでしたが、吉統の後だっただけに、官兵衛は城主の態度にいっそう感動したような気もします。

吉統のほうは家臣らが自分に託してくれた大友家再興の夢を潰えさせたばかりか、家臣たちの後々のことは考えずに官兵衛に降伏したことになります。

しかも

「黒田兵に笑われるのが恥ずかしいから夜になってから降伏したい」

と官兵衛に申し入れる辺り、自分のことしか考えていないというのが丸わかりの態度で、それを許可した時の官兵衛の表情が気になるほどです。

 

ともあれ吉統は西軍に加担したということで官兵衛の手配で徳川家康の元へ送られ、死罪だけは免れて今の茨城県である常陸国へ配流となりますが、家康に吉統の命乞いをしたのは石垣原で彼の命を保証するとして降伏を勧めた官兵衛でした。

官兵衛はその約束を守って吉統の命を助けたことになりますが、あれほど嫌っていた官兵衛に命を救われたことをどう思っていたのかは定かではありません。

その恩よりも、大友家再興の夢を叩き潰した相手として相変わらず逆恨みしていたのでしょうか。

 

大友吉統はある時から秀吉に貰った吉の字を捨て義統に戻ったとされ、一説には最晩年にキリシタンに立ち返ったとも伝わります。

それが事実だとすれば自分をキリシタンに導いた官兵衛と信仰についての何らかのやりとりがあったのかもしれません。

歴史からフェードアウトしたかのような義統のその後は、終焉の地も諸説あって未確定とされるほどです。

石垣原の敗戦ののち家臣らと共に討ち死にもしくは家臣らの助命をして自刃していれば、悲劇の名門当主としてもう少しは世の同情を集める武将になってようにも思えます。

 

まとめ

自分本位で家臣領民のことは考えず、人を逆恨みし、信仰も陣地もヤバいと思ったらすぐ捨てて肝心な時に逃げ出す大友義統は、宣教師の記録に酒癖が悪いと書かれるなど、ステキ武将の設定は皆無に等しい人物です。

それでも妙な好ましさを覚えるのは、頑張らない人間のダメなところをすべてさらけ出してくれているからでしょうか。

頑張らない毎日を送るキリシタンウォッチャーにとっては、高潔で人徳あふれる印象の高山右近や内藤如安よりも、大友義統のほうが一緒に居て緊張しない相手のようにも思えます。

3ヶ月だけキリシタンだった義統のことも、神様が気にかけて天国に呼んでくれたことを信じたい気持ちにもなりました。

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