戦国時代、一時は九州6か国を支配下に治めたキリシタン大名大友宗麟。
しかし栄光をつかんだのもつかの間、神の国を夢見たために転落の坂道を転がり落ちてしまいます。
どこかエキセントリックな宗麟の人生を振り返ってみたいと思います。
九州の英雄・大友宗麟(おおともそうりん)
大友宗麟(義鎮)は、1530年豊後の守護を務める名門大友氏当主・義鑑の嫡男として生まれました。しかし義鑑は溺愛する3男の塩市丸を跡目にしようと宗麟の側近を殺害します。ヤバイと思った宗麟派の家臣が逆襲に! なんと居館の2階にいた義鑑と塩市丸母子を襲撃したのです。母と子は亡くなり、2日後に義鑑も亡くなりました。父と弟を抹殺した「二階崩れの変」と呼ばれるドタバタ劇の末、21歳の宗麟は大友家当主になりました。
その1年後、ある運命の出会いが訪れます。それはキリスト教。もともと異国に憧れを抱いていた宗麟は宣教師のフランシスコ・ザビエルと面会。その人柄に感動し、ポルトガル国王への親書を渡し、豊後での布教を許しました。
ただし宗麟が豊後で布教を許したのは下心アリアリ。キリスト教を介して外国貿易を行ない、また最新鋭の武器も輸入したいと狙っていたのです。
宗麟、なかなか進歩的な武将だったようです。この作戦は大成功。貿易でもうけ、大砲や鉄砲といった最新の武器をゲットします。宗麟の巧みな政治力と、立花道雪、高橋紹運といった武勇に優れた家臣たちの働きもあり、大友氏は領土を拡大。豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、さらには養子に出ていた叔父も退けて肥後も領有しました。室町幕府にせっせと献金して守護職もいくつかゲットして結果的に6か国の守護となり、まさに九州随一の大名へと躍り出たのです。
中国地方を制した毛利氏が九州に進出すると、門司城の戦いで敗戦しますが、その後幕府を動かして和睦。再度攻められると毛利の領地周防を攻めるというヒャッホーな奇策に出て毛利氏の九州進出を防ぎます。
イエーイ。最新鋭の武器は手に入れるし、家臣は強いし、政治力もあって九州一の大名になった宗麟。頼もしい殿様とたたえたいところなのですが・・・。
九州屈指のスキャンダル王?
ところが、その裏ではなんと宗麟は九州のスキャンダル王。それが自らを破滅に追い込んでしまうのです。
じつは宗麟の私生活はハチャメチャに乱れていました。金にあかせた酒池肉林三昧。気に入った女性は叔父や家臣の妻でも平気で手を出すという非道ぶり。しかもその夫である家臣に罪をきせて殺すなどやりたい放題です。道雪もたびたび諌めたそうですが、キキメは一瞬。才気と狂気が同居したエキセントリックなお殿様だったんです。
正室の奈多夫人も気が強く、宗麟の浮気グセが許せずに国中の僧侶や山伏に調伏させたとか。夫が勝手放題の非道なら、妻は妻で夫を呪うという世にも恐ろしい夫婦です。
ところがそんな夫婦に今度は宗教対立という、神様仏様の問題まで加わったからさあ大変。それまではまがりなりにも7人の子供をもうけ、仲睦まじさもあった夫婦でしたが、ここからは「絶対譲れないケンカ」のゴング!
キリスト教に入れ込む宗麟の夫婦ゲンカ
じつは宗麟はぶっ飛んだ生活を送りながら一方で心の深ーい闇を抱えていたよう。それを救ってほしかったのかかなりの宗教オタクでした。
貿易のために許したキリスト教に徐々にひかれて教会や病院、育児院、神学校などを作ります。ところが一方で禅宗にも帰依して、宗麟という号も与えられたのです。
西洋と東洋の宗教を同時に信じるという神仏もびっくりの宗教オタク。
しかしその禅宗でも心のすき間を埋められなかったらしく、あとはキリスト教へまっしぐらです。
そんな宗麟の前に夜叉の如く立ちはだかったのが奈多夫人。奈多八幡宮の娘に生まれ、日本古来の神仏を深く信仰していた夫人にとって異国の神は日本の神仏を冒す大敵です。今度は僧侶や山伏と一緒に「絶対譲れない宗教ゲンカ」キャンペーンをぶち上げ、宗麟に何度も「キリスト教から離れて!宣教師を追放して」と迫ります。
宗麟は妻を説得できず、さりとてキリスト教への情熱はおさまらず、怒る妻を尻目にどんどんキリスト教にハマっていきます。さすがに自分はすぐに入信しませんでしたが、次男の親家に洗礼を受けさせます。これをきっかけに豊後の武士たちのキリスト教入信が増えました。
「息子をキリシタンにするな!豊後をキリシタンの国にするな」と、ここから夫妻の宗教対立はエキサイト!
久我家に嫁いだ夫妻の娘が、エステバンというキリシタン少年に仏の護符をもらってくるよう命じたところ、その命令を拒まれます。これを聞いた奈多夫人は、長男の義統(よしむね すでに家督を譲られていた)に「棄教の命に従わない彼を死罪にせよ」とカウンターパンチ!
さらに「キリスト教は仏の教えに背き、家臣を主君に背かせようとしている」とキリスト教をののしるフェイクニュースを宗麟や息子にばらまき、キリシタンに転向する家臣を死刑にしようと画策。母の剣幕にビビりまくった義統はエステバンを死罪にしようとしますが、宗麟がエステバンを助けました。
夫人の怒りのボルテージは頂点に! 夫婦ゲンカは「デウス様だ」「神仏だ」とお互いが相手をののしり、わめき怒鳴り合うものだったでしょう。
ついに夫婦の対立が決定的になる出来事が起こります。夫人の兄、田原親賢(宗麟の重臣)の養子親虎までもが洗礼を受けたいと言いだしたのです。
親虎は宗麟夫妻の娘と婚約していたため、親賢と奈多夫人は棄教しなければ婚約も破棄すると再三迫りますが、彼は動じません。ついには先に洗礼を受けている親家も親虎を「信仰を強く持って」と励ます始末。
般若?いや鬼夜叉?と化した夫人は「お前なんか息子ではなく神仏の敵だ」とばかり親家にまさかの絶交宣言。
兄の親賢とともに「こうなりゃ力づくでキリスト教を追い出してやる!」と、兵を差し向け、教会を壊し宣教師を殺そうとして、守るキリシタン武士たちとガチンコ激突。夫婦の宗教ゲンカがついに宗教戦争へと発展してしまいました。日本国内でも宗教がらみで戦争がおこることは珍しくありませんが、夫婦対立もからむので家臣たちもヤヤコシイ!
それまで宗麟は妻とケンカしながらも何とか穏便に済ませようと動くこともありましたが、ついにプッチーン!
「妻かキリスト教かと言われればキリスト教だ」と思ったのでしょうか、50歳を目前にして堂々のキリシタン宣言。自らが臼杵城を出て、新しい館を建てて移りました。夫人に一方的に離縁して、夫人の侍女頭だった女性を新しい妻に迎えたのです。
離婚、キリシタン、再婚の三重苦!
怒りと屈辱に夫人は思わず懐剣で自害しようとしましたが、周りの者たちにとめられています。
神の国の建設を夢見て
もうこうなれば宗麟の信仰を阻むものは何もありません。宗麟は政務も放り出して説教を聞き、祈祷書を読むなどキリスト教に没頭。洗礼を受け、ドン・フランシスコの名を与えられます。ザビエルに出会ってから30年近くの月日が流れていました。
しかしこの宗教対立はキリシタンと仏教派と家臣団も真っ二つに。栄華を誇った大友家の屋台骨もギシギシゆるみはじめます。
これは九州の武将たちにとって絶好の「ア○ックチャンス」!
肥前の竜造寺氏が暗躍し始め、一部の国人たちも離反していきました。さらに今度は島津氏が台頭し、まさに九州は三国志状態。
そのうち島津氏が北進を始めました。島津氏に攻め込まれた日向の伊東氏が「助けて」と宗麟のもとに駆け込んできます。日向が島津のものになれば自分たちの領土も危うくなると、宗麟は出陣しました。ところが宗麟はこの戦いに全く別の目標を抱いていたのです。
「日向の地に、従来の日本のものとは違う新しい法律と制度があり、兄弟的な愛に生きるキリシタン王国をつくろう」とお花畑ランラン、いえロマンある神の国づくりを夢見たのです。
赤い十字架の軍旗をかかげ、キリシタンになった新妻と宣教師を伴って出陣します。おまけに神社を破壊し、仏像を投げ込むという暴挙に出たため、仏教徒の家臣たちは「祟りが怖いよ。勘弁してくれ」と逃げ腰ムード。
それでいて当の宗麟は後方に礼拝堂を建てて礼拝三昧。
これでは家臣たちの士気も上がるはずがなくどっちらけモードのまま耳川の戦いに突入したところ、島津の作戦に引っかかりフルボッコにされてしまいます。
これを機に神の国計画はジ・エンド。それどころか大友氏は凋落していきます。それでもキリスト教にますます入れ込む宗麟と、それに反発して離反していく家臣や国人たち。島津軍には押されまくるわ、領内の国人たちが次々と離反するわでついに国をもちこたえられなくなった宗麟は中央で天下を取る勢いの豊臣秀吉に泣きつきました。
島津勢は大友氏の本拠・臼杵城まで攻め寄せましたが、宗麟らが国友崩しという大砲で何とか防いでいる間に豊臣軍が大挙して押し寄せます。
こうして何とかギリに命拾いして宗麟はピンチ脱出! あと一歩で島津家を撃退というところで、宗麟は神の国に召されました。病死だったそうです。
なお、大友氏は秀吉からこの後、豊後一国を安堵されました。
まとめ
大友宗麟:Wikipediaより引用
宗麟は、成功者だったはずなのに、キリスト教に入れ込みすぎたせいで家を没落させた残念な武将ともいえます。その一方で他の武将と異なり、真剣に精神的な神の国を打ち立てようと夢見た異色の武将でもありました。戦国一、ロマンを求めた武将だったのかもしれませんね。
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