信長の孫三法師が関ヶ原の西軍敗戦を確定?キリシタンが高野山へ?

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「織田秀信って誰?信長の父親は信秀でしょ?」

という風に戦国ファンでも一瞬ダレソレ状態になりがちですが、織田秀信こそが清須会議の流れを変えた幼児キーマン三法師の元服後の名前です。

信長の後継者だった織田信忠の嫡男として生まれ、本能寺の変当時は岐阜城に居て難を逃れ、後日ご存じ清須会議で秀吉の野望の道具にされた3歳児として有名になりました。

その後も政争に利用され続ける流転の子ども時代を送り、いつしか秀吉の家臣扱いになりながらも岐阜城主に納まって中納言にもなりました。

そしてキリシタン武将好きにもあまり注目されていませんが、ペトロという洗礼名を持つキリシタンでもあります。

 

ドラマなどで登場する織田秀信の人生ピークは、秀吉に抱っこされて清須会議の場に登場した瞬間で、その後あの幼児がどうなったのかは描かれないままというケースがほとんどです。

実は三法師こと織田秀信、天下分け目の関ヶ原前哨戦で西軍の敗戦を決定づけた存在という見方もされるほど、再度歴史のキーマンになっている節があります。

それすらあまり知られていないのは、なぜなのでしょうか。キリシタンウォッチャーも大いに気になったので調べてみることにしました。

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清須会議の切り札として利用された幼児

三法師を擁する秀吉~清洲会議の一場面:Wikipediaより引用

三法師といえば「ああ、あの清須会議の」と歴史にあまり興味のない人にもピンと来てもらえますが、当の幼児がその後どうなったのかは、多少戦国史に詳しくないとすぐに思い出してもらえないかもしれません。

本能寺の変後の織田家が気になった人であれば、三法師が二人の叔父による織田家後継者争いに利用されて、叔父や重臣の間を転々する幼児期を送ったことも把握していると考えられますが、熱い信長ファンほど本能寺以降の織田家はあまり追いたくないといった気持ちになるようで、三法師のその後があまり注目されないのも無理からぬ面があります。

後世の目から見れば、三法師の叔父である信雄と信孝が織田家における権力闘争を行っている隙に、羽柴秀吉が巧みな謀略で政権を掌握してまんまと信長の後釜に座ってしまったことがわかるだけに、信雄・信孝バトルは信長の栄光を台無しにした兄弟げんかといった印象も持たれがちです。

 

九州の陣を終えた秀吉が天下をほぼ掌握していた西暦1588年でも三法師はようやく数え年9歳で、自身が置かれた状況を把握しきっていなかったと考えられます。

その年早くも元服し織田秀信となって朝廷から官位も与えられますが、実質は秀吉一門や重臣らと同等の扱いになっていました。元服から4年後、織田秀信は祖父や父の城でもあった岐阜城の城主に据えられます。

本能寺の変直後に前田玄以らに護られて清州城へ逃れ、その後叔父らや秀吉の思惑のままに各地を転々としたのちに、ようやく戻れた故郷の城とも言えます。

かつて祖父の部下だった秀吉政権下の一大名であっても、まだ少年と言っていい年齢の秀信にとっては嬉しいお国入りだったかもしれません。

 

宣教師も期待した岐阜の貴公子

織田秀信がいつごろからキリスト教に関心を持つようになったのかははっきりしませんが、彼の祖父織田信長が、自身はキリシタンにならなかったもののヨーロッパの文化に興味を持ち宣教師らを保護してキリシタンらに希望を与える存在であり、父の信忠もキリスト教への関心が高かったと伝わります。

秀信が岐阜城主になった時期は秀吉がバテレン追放令を発した数年後で、元々ユルかった禁令がさらに緩和される兆しを見せていた頃でした。

岐阜城下は信長時代からルイス・フロイスらが幾たびか訪れていたこともあって、城下一帯にはその頃からのキリシタンも少なくなかったと推測できます。

宣教師たちにしてみれば、かつて自分達を保護してくれた織田秀信の岐阜入りは新たな希望の光だったと考えられ、彼が城主になってすぐの頃から何らかの接触を行っていたと考えても不自然ではありません。

実際に秀信が洗礼を受けたのはキリスト教への入信者が再び急増した1595年ですが、重臣の中にもキリシタンが多かったこともあって、それ以前から宣教師らとの交流がたびたびあった様子がうかがわれます。

秀信が入信を決意するまでに時間がかかったのは表向き禁教としている秀吉への遠慮があったためと言われ、洗礼を受けたことをその後も秀吉に隠し続けたとも伝わります。

秀信がキリシタン大名織田ペトロ秀信として信仰を明らかにできたのは秀吉の死後でした。

 

岐阜の美しい天主堂とキリシタン兄弟

織田秀信には一つ下の弟秀則がいましたが、彼も兄の勧めによって洗礼を受けパウロというキリシタンになっています。

この二人は共にまだ十代で子ども時代から仲が良かったのか、兄は弟を慈しみ弟は兄を支えるといった理想的な兄弟愛で結ばれていました。

兄弟げんかがヒートアップして自滅した彼らの叔父である信雄・信孝とは大違いです。

秀信・秀則兄弟は、叔父たちを反面教師に育って、身内で支え合う大切さを学んでいたのかもしれません。

 

織田信長の孫二人が揃ってキリシタンになったことは、かつて信長に厚遇されたルイス・フロイスをはじめ宣教師たちを大いに喜ばせました。

キリスト教を目の敵にした秀吉が亡くなって、かつて信長が君臨していた岐阜城に嫡孫とその誠実な弟が入って領国経営を軌道に乗せつつあり、しかも揃ってキリシタンになってくれたことは、天下の実権はともかく信長時代の再来のように思えたはずです。

しかも秀信は岐阜城下に美しい天主堂を築いたとされます。

当時まだ徳川家康は豊臣政権の実力者の一人といった存在で、のちに将軍となって厳しい禁教に舵を切るとは思われていなかったこともあり、キリシタンにとってはつかの間の明るい時期だったと考えられます。

フロイスは織田兄弟を絶賛する文章を遺しており、特にパウロ秀則について、信長の孫という身分を知らなくても少し会話しただけで身分の高さがうかがえる品格を持ち、日本人とわからなければ誰もがヨーロッパ貴族と思うはずといった書き方をしています。

素晴らしい天主堂を建ててもらった感謝の盛りが入っていたのかもしれませんが、キリシタン達にとっては、無邪気な喜びに満ちたほんの短い希望の時代となりました。

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主戦場での決戦以前に関ヶ原の勝敗を分けた岐阜城

秀吉の死によってキリシタンであることを公表できた織田秀信は岐阜城下に司祭らを招き天主堂を建て、共に信仰の道に生きる決意をしている弟のパウロ秀則と共に、祖父や父が整備した岐阜をさらに素晴らしい地にしようと誓いを新たにしたはずです。

秀信は、天主堂の次は貧しい人々のために病院を建てることを計画していたと伝わります。

ペトロ秀信の若く純粋な夢は、秀吉の死後高まりつつあった不穏な気配が関ヶ原の戦いに向けて一気に色濃くなったことで、実現に向けて動くどころではない事態を迎えます。

 

関ヶ原の前段階として知られる徳川家康の会津征伐に従軍するはずだった秀信は、軍装を整えるのに手間取ったという理由で出遅れ、西軍に引き込まれることになります。

従軍遅延も情勢を見るためだったとも言われ、秀信一人の決断ではなく重臣らの思惑が色濃く反映される判断だったと考えられます。

ともあれこの決断が岐阜城を西軍最前線の重要拠点にすることとなり、秀信の運命はその時に決まってしまったとも言えます。

 

大半が東軍に属することになる武将らを従えて東北に向かっていた家康が石田三成の挙兵を知って反転、先発隊の形となった池田輝政ら歴戦の武将らが岐阜城を落とすべく殺到することになりました。

秀信は岐阜城の重要な防衛ライン木曽川で東軍を防ぎ、時間を稼いでいる間に西軍の援軍が到着することを見込んで迎撃態勢に入りました。

ところが池田軍がどこで木曽川を渡るのか判断しかねて軍を分散させ過ぎたせいか、あっさり池田軍の渡河を許してしまい、その後の米野の戦いでは秀信自身も出陣して指揮をとったものの、兵力が足りない織田軍は完敗状態となって一気に劣勢に立たされます。

やがて岐阜城は援軍を待ちながら防戦することになりますが、池田軍には猛将福島正則の軍が合流し、峻険な要害であるはずの岐阜城がたちまち蹂躙される事態となってしまいます。

岐阜城周辺には他の東軍精鋭も布陣し、頼みの援軍は到底近寄れない状態と悟った秀信はついに降伏を決意します。

 

高野山に追いやられたキリシタン秀信

岐阜城陥落は石田三成が想定していた勝利への方程式を大いに狂わせたと言われ、最終的に関ヶ原主戦場での半日の決戦ですべてが決し、織田秀信は負けた西軍に加担した大名として当然のごとく改易が申し渡されました。

岐阜城をめぐる壮絶な攻防戦は城下にも甚大な被害を及ぼし、美しかった天主堂も焼け落ちていました。

荒れ果てた岐阜を去ることになった秀信が向かうことになったのは、よりによって高野山でした。

落城後剃髪したとされる秀信のキリシタンとしての立場はその時点でどうなったのか判然としませんが、天主堂を建て慈善病院の建築まで夢見ていた若きキリシタンを元祖仏僧ワールドとも言うべき高野山に押し込めるという決定は、ある意味死罪よりも残酷な仕打ちだったようにも思われます。

 

秀信を迎えることになった高野山は、かつて信長の軍に攻められたこともあって当初は秀信の入山そのものを許さず、許可した後も冷遇したと伝わります。

キリシタンだった秀信が高野山の僧としていかなる日々を過ごしたのかは伝わっていませんが、関ヶ原から5年後、26年の短くも波乱に満ちた人生を終えました。

病気療養のため高野山から下りたとも言われますが、下山からほどなく山麓の住まいで亡くなったとされ、最期だけはキリシタンとして命を終えたいと考えての行動だったとも推測できます。

 

兄同様キリシタンの希望の星であり司祭達からも期待されていた織田秀則のほうは、兄と共に高野山に向かうことは許されなかったのか京都で僧となったのち、兄の死後20年ほど生き続けたと伝わります。

関ヶ原後は事実上キリシタンではなくなったからか、織田信長の孫達の寂しい最期は、宣教師らの記録にもあまり詳しく記述されていません。

 

まとめ

織田秀信:Wikipediaより引用

関ヶ原後の織田秀信への処断は西軍大物への仕打ちにしても、あまりに残酷と思わざるを得ないものがあります。

家康にしてみれば微妙な時期に西軍に就かれた恨みがあったとも思えますが、かつて同盟を結んだ信長の嫡孫への恩情は無かったのかという気持ちにもなります。

それよりも、以前信長の圧力で大切な跡継ぎだった信康の命を断った時の無念さを、家康は思い出していたのでしょうか。

 

お互い助け合って岐阜の街づくりに情熱を傾け、キリスト教への信仰を深めていた仲の良い兄弟を引き裂いて別々の地で仏僧になることを強要した徳川家は、やがて秀吉のバテレン追放令が牧歌的だったと思えるほどの苛烈な弾圧をキリシタンに対して行うようになります。

織田信秀・秀則兄弟が夢見た岐阜のキリシタン城下町は遠い夢のまま終わり、その面影も留めないままとなっています。

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