内藤如安という名から連想されるのは、小西行長をサポートして朝鮮の陣における講和交渉を行ったことや、高山右近と共にマニラに流された人物といった感じで名の知られたキリシタン武将とセットで語られる人物といった扱いです。
かく言う筆者も単独で思い出すことがあまりなく、今回改めて彼の波乱に満ちた生涯を知ることになりました。
まず「松永弾正の甥」で意外に思う人が少なくないと思われ、やらかしエピソード満載で大人気の松永弾正と、流転の運命を静かに受け入れて生きた敬虔なキリシタン内藤如安とのイメージの違いに、まず興味を惹かれるのではないでしょうか。
織田信長台頭前は畿内の覇権を掌握する勢いだった松永弾正の甥だけに、内藤如安は当時の戦国武将の中では名門出身と言っても差し支えない一族に生まれました。
さらに将軍家の直臣のような立場で足利義昭に付き従っていた時期もあり、世渡りが上手ければ今に残る大名家の祖となっていたとも考えられます。
内藤如安からは、戦国武将にありがちの野心や家門への執着があまり感じられないこともあって、数々の戦国エピソードで脇役に甘んじることになった気配もあります。
松永弾正の野望を支えた弟の元に誕生

「太平記英勇伝十四:松永弾正久秀」:Wikipediaより引用
内藤如安が忠俊という名よりも洗礼名ジョアンに漢字を当てた如安のほうで知られていることは、キリシタン武将としては嬉しいポイントかもしれません。
それはともかく、松永弾正の弟の実子でありながら松永姓ではないところには戦国時代ならではの事情があります。
内藤如安の父宗勝は元は松永長頼と名乗り、松永弾正の畿内での覇権確立を実現するべく兄をサポートして戦う日々を送っていました。
長頼は現在の兵庫県や京都府、大阪府にまたがる丹波国の要衝にある八上城を支配するにあたって、討ち死にした前城主で丹波守護代の内藤国貞の跡継ぎを後見する立場で入り込みました。
やがて国貞の姉妹か娘と言われる女性と婚姻を結び、実質的な城主となって内藤姓を名乗り名も宗勝と改めました。
内藤如安は、八上城を乗っ取るため内藤家の押しかけ婿となった松永弾正の弟の子どもとして誕生したことになります。
如安が生まれたのは西暦1550年頃と言われていますが、その15年後の1565年に父宗勝が丹波国内の反乱勢力との戦いでまさかの討ち死を遂げ、内藤如安の運命の変転が始まります。
弟長頼こと宗勝の死は松永弾正にとっても大変な痛手で、結局は丹波の支配権を喪失することになり畿内争乱の複雑化を招きました。
内藤如安にしてみれば松永弾正や三好家という後ろ盾を失ったに等しく、八上城主の地位を内藤国貞の実子に奪われることになります。
内藤家の本筋から見れば乗っ取り屋を退けて正当な流れの継承が実現したことになりますが、次の八上城主として育てられていたであろう如安は、執政という立場に甘んじることになりました。
何が何でも城主になろうと思えば方策はあったとも考えられ、城主になれないのなら内藤家を飛び出すのではなく、サポート役として残ったところに如安の人の良さがうかがえます。
戦国時代では命取りになりかねない優しさや謙譲の心を持った内藤如安が、人の道の慈愛を説くキリスト教に惹かれたのは当然と言えるかもしれません。
将軍家に尽くすキリシタン武将内藤如安

父の死によって思春期に人生の浮沈を知ることになった内藤如安の前に1人のキリシタンがあらわれます。
山口の内藤家から丹波の身内を頼って来たカタリナという洗礼名を持つ年配の婦人で、彼女が語るキリスト教の話に心を動かされた如安は洗礼を受けキリシタンとなりました。
入信の数年後、母親が財産目当ての仏僧に殺害されるという悲劇に見舞われた如安はそれ以降さらにキリスト教への信仰を深め、八木城下で貧しい人々への施しを行うなど模範的なキリシタンとしての道を歩み始めました。
とは言え、戦国武将でもある内藤如安は信仰一筋に生きるという訳には行かず、織田信長と足利義昭の対立の渦に巻き込まれて行きます。
将軍義昭の支援のため軍を率いて京へ入った内藤如安は、兜に金色のイエズス会紋章を飾り、十字架の旗指物をはためかせた兵を率いて人々を驚かせました。
まさに元祖キリシタン武将という華やかさで颯爽と表舞台に立ったかのような如安でしたが、後世の目から見れば斜陽の足利将軍家の側に就いたこと自体、貧乏くじを引いたも同然で足利義昭の没落と共に、キリシタン武将内藤如安は戦国武将としての力を失って行きます。
早い段階で足利将軍家に見切りをつけた世渡り上手の武将達を目の当たりにしながらも、自分は同調せず将軍に従い続けた姿勢からは、キリシタンとして天に恥じない己であろうとした如安の不器用ながらも真っ直ぐな思いを感じ取ることができます。
鞆の浦で学問に向き合った日々
内藤如安が足利将軍家への支援を行った背景には、伯父である松永弾正の意向が働いていたと言われます。
足利義昭の没落によって松永弾正は結果的に織田信長に服従する道を選びますが、都落ちや八木城の落城を経て丹波から追われる形となった内藤如安が選んだのは、流浪の足利義昭に付き従う道でした。
将軍の数少ない家臣の一人として毛利領の鞆の浦に落ち着くこととなった如安は形ばかりの鞆幕府の御所に侍る傍ら、学問三昧の毎日を送ったと言われます。
後年、内藤如安は卓越した語学力と漢籍をはじめとする豊富な知識を見込まれて朝鮮の陣を終わらせるための和平交渉を担当することになりますが、その素養はこの鞆の浦滞在の数年間で培われたと考えられます。
さらに30代半ばに差し掛かっていた如安はこの時期マリアというキリシタン女性と結ばれます。
当時としては遅い結婚ですが、生涯連れ添う一夫一婦制を厳格に己に課すキリシタン内藤如安が心から愛せる女性にめぐり会えた証でもあり、風光明媚な鞆の浦で過ごした学問三昧と蜜月の日々は、如安の人生で最も幸せな時期だったことが容易に想像できます。
内藤如安がささやかな幸せに酔いしれる年月の間にも時代は大きく動き、野望に動かされるままに信長に就いたはずの松永弾正は謀反に失敗して落命、織田信長までもが本能寺に倒れ、羽柴秀吉が天下統一に王手をかけるまでになっていました。
やがて秀吉の関白就任などに利用されるようになった足利義昭の傍らで、如安は秀吉の側近らとも馴染む機会を得たと考えられ、その中で高山右近や小西行長との縁を深めて行ったと推測できます。
小西行長の親類衆として重臣に

小西行長:Wikipediaより引用
内藤如安のプロフィールをざっくり語る場合「小西行長の家臣でのちに高山右近と共に国外追放となった」といった感じになりますが、キリシタン武将という共通点だけでなく3人には過去にさかのぼった微かな縁もありました。
高山右近の父はかつて松永弾正配下の武将だったことで、右近にしてみれば如安は主筋の一族ということになります。
行長の場合は小西家の祖が丹波内藤家の一族だったという説もあり、事実だとすれば遠い親戚と言えなくもない存在です。
ともあれ内藤如安は小西行長の重臣として迎えられ、親類衆として小西飛騨守とも称するようになりました。
秀吉政権の重要人物の側近となった如安は鞆の浦での静かな学問三昧の生活から一転、再び戦と隣り合わせの日々を生きることになります。
如安が小西行長の家臣になってほどなく、日本のキリシタンを震撼させた秀吉によるバテレン追放令が発布されます。
高山右近は信仰を守ることと引き換えに大名としての地位を失い、小西行長は表向き信仰から背を向けて秀吉に追従しました。
この時内藤如安がどういう態度を取ったのかは伝わっていませんが、ほどなく秀吉の態度が和らぎ個人の信仰の自由は認められるようになったため、敬虔なキリシタンとして信仰を守り続けたことが推測できます。
秀吉の天下取りの戦を支え続ける行長の元、如安も行長の側近の一人として多忙な日々を送ったと考えられますが、天下統一後には日本の戦国乱世が大陸に飛び火したかのような無益かつ悲惨な文禄・慶長の役が始まってしまい、嬉しくない状況下ながらも、内藤如安が国際舞台で活躍する日が到来します。
果たせなかった講和と続く悲運

文禄の役『釜山鎮殉節図』:Wikipediaより引用
秀吉を欺いてまで開戦を防ごうとした小西行長の努力は空しく潰え、出征ののち彼は大陸で戦いながらも必死で講和へのお膳立てに奔走します。
内藤如安も行長を必死に支え、ついに明国との直接交渉のため北京に向かうという大役を任されることになります。
鞆の浦で親しんだ漢籍や語学力を生かし、日本と朝鮮・明国という3つの国の命運を賭けた交渉に如安は精魂を傾けます。
明国に入ってからは北京に到達する前に長く足止めされ、実質的に人質に取られたのではないかという見方もされることになりましたが、1年半後にようやく明皇帝に目通りが叶い交渉も行うことができました。
和平の条件は到底秀吉が納得できる内容ではなかったため再度の朝鮮侵攻が始まることになり、結果的に内藤如安の苦労はあまり報われなかったことになります。
秀吉を欺いた講和交渉がバレたため激怒した彼から最前線での戦いを命じられ、最も望まない戦に臨む羽目になった小西行長は、秀吉の死によって帰国が叶ったもののほどなく起こった関ヶ原の戦いで惨敗し、刑死する悲運に見舞われました。

加藤清正:Wikipediaより引用
行長の死を彼の領国である今の熊本県の肥後・宇土城で知ったと思われる内藤如安は、その後小西領を手に入れた加藤清正によって悲惨な境遇へと追い込まれて行きます。
小西行長と加藤清正は朝鮮の陣を経て険悪な関係となっており、清正の小西遺臣への風当たりの強さは無理からぬものがありました。
特にキリシタン嫌いの清正の迫害の矛先は内藤如安に向けられた気配があり、禄と引き換えの棄教を迫られた如安一家は精神的にも経済的にも追い詰められて行きました。そこに救いの手を差し伸べたのは隣国の大名で同じキリシタンの有馬晴信でした。
北陸キリシタン楽土から異国への流刑

有馬晴信像:Wikipediaより引用
内藤如安は有馬晴信の手配で前田家の客将として迎えられることになり、家族らと共に北陸金沢へ向かいました。
待っていたのは同じく前田客将として金沢で信仰生活を送っていた高山右近です。
小西行長配下のキリシタン遺臣らの行く末を案じた右近が有馬晴信に依頼して加藤清正を過度に刺激しないよう配慮しながら如安一家を救い出したとも考えられます。
高山右近らと共に信仰を深め、茶の道にも傾倒する日々を送った金沢での数年間は、鞆の浦時代に匹敵する幸福感を内藤如安にもたらしたと考えられます。
金沢では、同じキリシタンでありながら、これまで会う機会が少なかった妹のジュリアと再会することも叶いました。
その幸せも徳川幕府のキリスト教禁教強化によって暗雲が垂れ込めます。
その原因にもなったのが九州で如安を救ってくれた有馬晴信と幕府の役人をめぐる贈収賄事件で、有馬晴信らは死罪に追い込まれ、キリシタンが起こした事件という面が強調されて一気に弾圧が強化されます。
やがて前田家に庇護されていた内藤如安らにもその波が押し寄せ、棄教が選択肢にないキリシタン達には流罪が申し渡されました。津軽など国内に流された人々もあった中、如安一家は高山右近らと共にマニラへの流刑が決まります。
過酷な船旅を経てようやく着いたマニラで高山右近はほどなく天に召され、内藤如安は妹ジュリアや家族らと共に右近を偲びながら南国での信仰生活を続けました。
生来、学ぶことが好きだったと考えられる如安はマニラでも書に親しみ書籍の執筆も行ったと伝わります。
キリスト教が禁じられることなく、彼が日本に残っていれば何らかの著作が今の世に伝わっていたかもしれません。
江戸時代初期の俳人・松永貞徳は松永久秀の孫という説もあり、内藤如安も生まれた時代が違っていれば、文化人としての違う人生を選んだようにも思われます。内藤如安が異国の地で70余年の生涯を終えたのは日本を去ってから12年後のことでした。
まとめ

マニラ・聖ビセンテ・デ・パウル教会「終焉の地」の記念碑:Wikipediaより引用
イギリスの王立兵器博物館に保存状態の良い戦国武将の甲冑が所蔵されています。
フィリピンを出て海外を転々としたのちオークションにかけられロンドン塔に落ち着いたとされるその甲冑の持ち主は、ナイトウユキヤスという武将であると伝わります。
ユキヤスは如安を誤読したと考えられ、内藤如安所有の甲冑で間違いないと見られています。
随所に金色の十字架がデザインされた留め具などがあしらわれ、兜の立物はありませんが大きめの物が飾られていたとおぼしき構造になっています。
内藤如安が金色に輝くイエズス会紋章が目立つ兜で晴れやかに都入りした時に身に付けていた甲冑だったのでしょうか。
マニラに流される折にも手放さず、彼の死後いつしか変転の運命をたどった甲冑と考えられますが、静かな信仰生活を望みつつ武将の誇りは決して捨てることがなかった内藤如安の、深い精神性が伝わるかのような形見です。
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