官兵衛からキリシタン理想郷を託された黒田直之は黒田の黒歴史に?

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黒田官兵衛が実はキリシタンだったことは広く知られるようになりましたが、弟の黒田惣右衛門直之もミゲルという洗礼名を持つ敬虔なキリシタンでした。

官兵衛の息子黒田長政が今の福岡県である筑前一帯を領有した折、黒田直之は元来キリシタンと縁の深かった秋月を治めることになり、官兵衛が夢見たキリシタン理想郷を、兄に変わって築き上げて行きました。

ミゲル直之の元には関ヶ原の戦いで領国を追われたキリシタン武将明石掃部や、のちにエルサレムを経てローマへ到達し司祭にまでなったペトロ岐部カスイも集い、以前からの住民らと共に穏やかな信仰を日々を送っていました。

その理想郷は徳川幕府のキリシタン禁教政策が厳しさを増すにつれて、黒田家当主長政にとって頭痛の種となって行きます。最大の防波堤となっていた官兵衛が世を去った時、直之の運命は決まっていたのかもしれません。

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1 官兵衛の18歳年下の異母弟

黒田官兵衛:Wikipediaより引用

黒田官兵衛に関する書籍は数多く、実際に秀吉の軍師だったかどうかの議論も含め、武将としての彼については豊富な資料に恵まれていますが、キリシタンであるシメオン官兵衛については未だに謎の部分が多いとされています。

江戸期のキリシタン弾圧があまりに凄まじかったこともあって、現代にまで残る大名家ほど祖先がキリシタンだった事実を封印する傾向にあったことや、そもそも江戸初期の当主らが先代や先々代がキリシタンだったという痕跡を隠滅しようと必死になったことで、史料が残されていないという側面もあります。

黒田家にとって「稀代の軍師黒田官兵衛」は望ましいものであっても「キリシタン官兵衛」はスルー推奨案件でした。

官兵衛の死後、黒田直之と彼の嫡男パウロ直基がたどった運命を見た場合、スルーしたくなるのも無理からぬことと感じるようになるはずです。

 

黒田直之のプロフィールを語る前に、思わせぶりにいろいろ書いてしまいましたが、そもそも直之について伝えられている事柄はあまり多くなく、虚実入り混じった多数の逸話で彩られている官兵衛に比べたらほんのわずかという印象です。

ドラマなど創作の世界でも栗山善助や母里多兵衛といった家臣のほうが目立ち、直之は「官兵衛の弟の一人」といった扱いになりがちです。

西暦1564年生まれの直之は官兵衛より18歳年下ということもあって官兵衛が世に出た頃、直之はまだ子どもでした。

ちなみに官兵衛の嫡男長政にとって直之は4歳年上の叔父になります。

官兵衛には弟が3人いますがいずれも異母弟で、直之より上の利高、利則も含め、黒田家の興隆に奔走した兄・官兵衛を支え続けました。官兵衛の弟たちは、天下取りを狙う羽柴秀吉にとっても貴重な人材ということで、一時期の直之はハケン武将といった雰囲気で他家の家臣として働いた時期がありました。

 

 

2 ハケン先から戻り兄に誘われキリシタンへ

黒田直之:Wikipediaより引用

黒田直之が一時黒田家を離れて仕えていたのは、羽柴秀吉本人とその弟秀長です。

播磨平定の後、すぐ上の兄利則と共にいったん秀吉の家臣となり、天下取りへの戦いが本格化し始めた頃に秀長の元に転属されました。

生年から考えると直之は10代後半で秀吉の元で働き、20歳前後で秀長に仕え始めたことになり、天下の主になるべく大躍進していた羽柴一族を間近で見る青春時代を過ごしていたことがうかがえます。

秀長領国、今の奈良県・大和郡山城下で直之が暮らした頃のお隣さんは藤堂高虎だったと言われます。

 

九州平定の戦いの折、多忙になった兄・官兵衛の元に直之は利則と共に戻されます。

名実ともに黒田一族として戦国の世を生きることになった直之に訪れたもう一つの大きな転機は、キリスト教への入信です。

少し前に高山右近の導きで洗礼を受けシメオン官兵衛となっていた兄は、受洗直後にありがちなキリスト教にぞっこんの時期だったこともあって息子や弟らを誘いました。

官兵衛は、洗礼を受けるかどうかは各人の意志に任せるといったスタンスを取ったと言われますが、交渉上手で知られる官兵衛だけに、高山右近から聞いた話をさらに盛ってキリスト教の良さを熱く語ったと考えられます。

利則だけはキリシタンにはならなかったとされますが、利高と直之は入信を決意し、西暦1587年の復活祭に洗礼を受け、ミゲル直之としての新しい人生が始まりました。

甥の黒田長政も共に入信しダミアンというキリシタンになりましたが、後年、二人が求める世界はまったく違うものになって行きます。

 

3 バテレン追放令と小田原で得た花嫁

黒田直之がキリシタンになった同じ年、日本発の禁教令といわれるバテレン追放令が発布されます。

大名の地位も領地も返上してまで信仰を守り抜いた高山右近のほかは、右近と同じくらい宣教師らから頼りにされていた小西行長までもがキリスト教から背を向けることを選びました。

黒田一族も同様の選択をしたものの、高山右近の反応に驚いた秀吉が、布教は禁じるものの個人の信仰は認める方向に態度を軟化させたことで、官兵衛や直之は以後も模範的なキリシタンとしての道を歩んだと考えられます。

バテレン追放令以降、官兵衛はキリスト教から距離を取っていたというのは、江戸期に幕府の手前そういうことにしておきたかった黒田家中の意向が反映されていると考えられます。

一説に、秀吉が官兵衛のことを功績の割に冷遇したのは、逸話などで取り沙汰されている才能への警戒というよりも、キリシタンであることをやめなかったからだとも伝えられています。

多くのキリシタンが秀吉の顔色をうかがって信仰を捨てたり隠したりした中で、高山右近ほどではなかったものの、官兵衛も直之も逆風の中キリシタンとしての生き方を貫いていた様子がうかがえます。

利高と長政は秀吉に素直に従った形跡があり、利高の洗礼名が伝わっていない理由もそこにあるようにも感じられます。

自分の妻に入信を強いていない官兵衛は、一族の一部は寺社との付き合いが可能な状態にしておいて、八方うまく納めていたとも推測できます。

 

九州平定は、直後のバテレン追放令によってキリシタンにとっては試練の時代の幕開けとなりましたが、秀吉にとっては天下統一が目前であることをより強く確信した時期だったと考えられます。

そして3年後ついに小田原を開城させ北条家を下します。

官兵衛が無血開城の立役者となった縁からか、後日、直之は北条方だった武将の息女を花嫁として迎えることになりました。

彼女も受洗してマリアというキリシタンとなり、やがてミゲル直之との間に3人の男子を授かります。直之一家は模範的なキリシタン家族と讃えられるほどだったと言われます。

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4 毛利一族の姫を養女にした直之

毛利秀包:Wikipediaより引用

天下統一後の泰平を楽しむ暇もなく駆り出された文禄・慶長の役で、黒田直之はすぐ上の兄利則と共に黒田長政の軍で功名を立てています。

直之はそれ以前も長政と共に陣中にあることが多く、年齢の近い叔父と甥ということで良い関係を築いていた様子がうかがえます。

兄や甥のために誠実に尽くす直之は、他家の武将たちからも好ましい存在として映っていたようで、キリシタンに好意的だったとも伝わる福島正則とは特に親しく交流していたらしいことが、後年の逸話からも見て取れます。

 

共に洗礼を受けた毛利元就の九男小早川秀包は同じキリシタンであり、官兵衛や直之に信頼を寄せていたこともあって、関ヶ原の戦いの折は敵味方に分かれながら、万が一の時は黒田を頼るようにと家族や留守を守る家臣らに言い含めて上方へ向かったと言われます。

実際、秀包の居城・久留米城がいわゆる東軍方の鍋島軍の猛攻にさらされ耐え忍んでいたところに、敵でありながら救世主のように官兵衛軍が現われ、城兵らは安堵して降伏します。

城を預かることになったのは直之で、保護した秀包の妻子や家臣らを後日、毛利領国へ無事に送り届けました。黒田家の人質として残った秀包の娘を、直之は養女として迎えます。

自分には男の子ばかりで女の子がいないから、秀包に頼んで養女にもらったと言われますが、人質でなく身内の姫として遇するためだったと思われます。秀包の娘は数年後、直之を養父として黒田の重臣に嫁ぐことになりました。

 

後年、直之も長年の友である福島正則に次男と三男を預けています。

黒田家の身内ではなく他家に我が子を託そうと直之が考えるほどになったのはなぜなのか、秋月がたどった運命から、ある推測が浮かび上がります。

 

5 秋月に咲いて散ったキリシタン理想郷

関ヶ原の戦いの功によって黒田長政は筑前52万余国の太守となります。

黒田直之は長政の後見の一人として藩政にも関りながら、秋月をキリシタンの理想郷にするべく城の整備よりも教会や司祭たちの住む館の建設に力を入れるほど、熱心に取り組みました。

直之の館近くにあったとされる教会の跡地からは十字架がはっきりとわかる瓦が出土しており、キリシタン橋と呼ばれる地も残されています。

ほどなく秋月近郊に関ヶ原の敗戦で国を失った明石掃部が家族や家臣らと共に住むようになり、周辺のキリシタンではない住民達からも感心されるほどの熱心な信仰生活を送るようになりました。

けれどもその穏やかな日々は、徳川幕府の禁教政策の強化によって10年も経たないうちに終わりを迎えることになります。

 

幕府にキリスト教禁教の動きが出始めていた頃、キリシタンの支えとなっていた官兵衛がこの世を去ってしまいます。

官兵衛の葬儀はキリスト教式で行われ、直之は葬列で十字架を掲げて進んだと伝えられています。

官兵衛の死から4年ほどのち、40代半ばの直之は重い病に罹ります。

弱った身体で九州と江戸を行き来したことが祟って、療養先の京に着いてすぐに天に召されました。

直之が亡くなって間もなく、幕府のキリスト教禁教政策は加速し始め、直之の嫡男パウロ直基は父の跡を継ぐ条件として、黒田長政から棄教を迫られるまでになっていました。

直之の息子への遺言は、ただ一言「信仰を貫くように」だったにもかかわらず、長政はその遺言に背くよう迫ったことになります。

その後長政がなぜか態度を和らげたことで直基の家督継承は許されましたが、一年後、直基は自ら家臣を成敗しようとして返り討ちに遭い落命したとされます。

不審な惨劇ということで当時から暗殺の噂が立ちましたが、今も真相は闇の中です。

直之の黒田家は断絶とされ、秋月は本家に接収されることになり、キリシタンの理想郷は散りゆく運命となりました。

 

まとめ

自らの死期を悟り、わが子らの行く末に不安を抱いたのか、黒田直之は次男と三男を広島城の福島正則に託しており、京にいたとされる妻マリアの身の安全も頼んでいたと言われます。

徳川幕府の禁教政策に同調していた当主長政の態度から何かを感じ、黒田家中以外を頼ったとも考えられます。

自分の死後、嫡男パウロ直基が置かれるであろう厳しい状況を予感しながらも秋月の信者らのために家督を託し、その上で信仰を貫くよう遺言した直之は、息子への愛と信仰のはざまで引き裂かれる思いだったかもしれません。

 

長崎に葬られたとされる直之の亡骸は禁教の嵐の中行方不明となりますが、ある寺に墓碑だけが残されており、近年「黒田家のお姫様」と呼ばれる女性ゆかりの寺院に移転され、彼女の墓所の傍らに建て直されました。

そのお姫様こそ、直之が養女にした小早川秀包の娘です。

キリシタンだった直之がお寺の中で仏式のお墓を建てられたことになりますが、娘の傍らで満足していると信じたくなります。

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