関ヶ原の戦いは負けた西軍の首謀者3名が斬首されたことはよく知られていますが、ドラマなどでは「石田三成とその他2名」といったムードが漂い、その2名のほうも信長の末路を予言するような文を書いていながら自分の末路も無残だった安国寺恵瓊について取り沙汰されるほうが多めで、小西行長は影が薄い印象があります。
しかも一部では西軍の足を引っ張った最弱小西軍とまで言われ、それ以前の文禄・慶長の役前にも宇喜多秀家に「小西軍は弱いから宇喜多が助けなきゃ」的な発言をされていたとも伝わります。
小西軍はそんなにダメ感が漂っていたのでしょうか?バテレン追放令の折には高山右近を匿ったのに、彼より知名度イマイチなのはどうしてなのでしょうか。
なぜか宇喜多領へ養子に行ってた小西行長

小西行長が豊臣秀吉の元で便利使いされるようになる以前については曖昧な点が多いとされています。
西暦1558年頃京の商家に生まれた行長は、なぜか宇喜多領である備前、現在の岡山県の商人の元へ養子に入ります。
その後宇喜多直家に見いだされ、当時宇喜多を味方にしつつあった秀吉の元へ使者に行って気に入られ、秀吉の家臣になるというサクセスストーリーめいた話になっています。
当時は武家と商家とで極端な身分の隔たりがなかったとはいえ、京の商家出身の若者が、京周辺一帯を実質支配していた織田方の秀吉家臣になるというのはご都合展開的な印象もあり、西国への進出に欠かせない宇喜多取り込みの布石として信長陣営サイドから派遣された存在と見ても飛躍しすぎではないように思えます。
行長の父・小西隆佐や行長の兄も商人でありながら秀吉の家臣だったと言われます。
小西行長は秀吉の元で水軍の将として活躍したと言われますが、実際は小西家の商船多めの船団で、武器や兵糧を戦地に運ぶ兵站の役割がメインだったと考えられます。
それを立派に果たす才覚があったからこそ短期間に立身を遂げて大名の地位を手に入れた気配があります。
その点は秀吉自身の出世ぶりと少々似ており、のちに共に働く機会が増える石田三成の才能に通じるものもあります。
行長がキリシタンになった時期ははっきりわかっていませんが、南蛮との交易をスムーズに行いたい商家が軒並みキリシタンになっていただけに、行長も父や兄と共に早々に入信していた可能性があります。
少なくとも秀吉の元で頭角をあらわした頃の行長はアゴスティーノ、最近の表記ではアウグスティヌスという洗礼名を持つキリシタンでした。
顧客第一のキリシタン大名

キリシタンになった人物を盛って報告する傾向にある宣教師の報告書によって、小西行長は水軍の将や海の司令官といったイイ感じの肩書がつけられています。
とは言え荒々しい海賊系の水軍と違って自ら海戦を仕掛けるような海将ではなく、秀吉が展開させた各地の天下制覇への戦線で、各軍への適切な補給を速やかに成功させるタイプだったと考えられます。
必要な数量の物資を決められた期間内に正確に運ぶという、ほかの武将にはない行長の才覚を秀吉は高く評価し重用、遠い九州での戦も有利に進めることを可能にしたとも言えます。
九州平定は秀吉の天下統一事業を飛躍的に前進させた戦であり、小西行長にとっても喜ばしい結果として終わるはずでした。
ところが秀吉が突如発したバテレン追放令によって、キリシタンにとって苦難の時代が幕を開けることになってしまいます。
その苦難の道に自ら踏み込んでいったのが、小西行長と親しかった高山右近でした。

秀吉が各キリシタン大名に信仰を捨てるよう迫る中、高山右近は大名の地位を捨てて信仰を守ることを選びます。
高山右近と同様のキリシタン大名が続出しては戦力にも響くことから、秀吉はその後、積極的にキリスト教を広めなければ大名ら自身の信仰は黙認する方向に態度を軟化させます。
秀吉の怒りを買い領国を失った高山右近を自領・小豆島に匿ったのが小西行長でした。
行長も右近同様、宣教師らから頼りにされるキリシタンでしたが、バテレン追放令に際して彼が選んだのは、秀吉の前では表向き信仰を捨てるという偽りの態度を取ることでした。
小西行長にとって秀吉は主君であると同時に大事な顧客であり、その要望に従うことは当然でした。
高山右近の潔さに対して、周囲を偽ることも辞さない方法で危機回避した行長の姿勢は、その後も重大な局面でたびたび見られるようになります。
望まない大陸出兵への回避工作

九州平定後の一揆対策への功もあって小西行長は今の熊本県である肥後国南半分を授けられ一気に20万石の大名となりました。
小豆島ほか1万石の身分から驚くべき出世を遂げたことになります。
戦場での槍働きといった戦国武将としてわかりやすい功によるものでないだけに、あからさまな嫉妬や侮蔑の目を向ける武将も少なくなかったはずです。

のちに感情的な確執まで深め合うようになる肥後北半分を領有する隣国領主・加藤清正も、そんな武人の一人だったようです。
人事に自信があった節がある秀吉にしてみれば、全く違う才能を持った二人の武将を競い合わせ、さらに高めた才能を大陸での戦で発揮してくれることを期待していた気配もあります。
九州や中国地方の領主に据えられた者たちには、来るべき大陸での戦における重要な戦力となることが期待されていました。
朝鮮との交易も行っていた小西行長は、貿易相手国との関係悪化を招く秀吉の大陸への野望を内心、迷惑に思っていたはずです。
表向き棄教した時と同様、行長は表面上は秀吉の意向に忠実に従って、大陸への豊臣軍出陣に向けて準備に奔走することになりました。
行長は後年、明国との講和交渉をめぐって秀吉を欺き激怒させたことで知られていますが、行長の嘘は大陸への侵攻準備の段階から始まっていました。
朝鮮王朝との関りも深い対馬の宗一族らと共に、朝鮮からの使者が日本に従うかのような工作を行って出兵を回避しようとするなど、開戦前から秀吉に対して偽装に満ちた対応を行っていました。
危険な綱渡りのような出兵回避工作は失敗したり裏目に出るなどして、結局は秀吉の命令のままに日本の武将らは次々に海を渡り、慣れない大陸での戦に臨むことになりました。
徒労に終わる嘘で固めた和平交渉

文禄の役『釜山鎮殉節図』:Wikipediaより引用
朝鮮半島での戦は当初こそ戦慣れしている秀吉軍の快進撃が続きましたが、次第に朝鮮側の反撃が功を奏すようになり、やがて講和に向けての交渉が本格化してきます。
文禄・慶長の役を通して小西行長と加藤清正の仲は険悪さを増して行くことになりますが、序盤から手柄争いを巡る話などが数多く伝わっています。
行長の場合進軍を急ぐ理由が、少しでも多くの手柄をあげたい清正とはかなり事情が違っていた面があります。陸戦に慣れていないはずの小西軍がいち早く朝鮮王朝の都である漢城に到達できたのは、行長自身が朝鮮王に会うことで形ばかりの降伏を勧め、早々に戦闘を終わらせる目的があったからとも推察されています。
行長の思いを知らない朝鮮王にしてみれば怒涛の勢いで秀吉軍が攻めて来たとしか思えず、行長や清正が漢城に入った時、王は民を捨てて逃亡した後でした。
開戦前から裏目に出続けていた行長の和平工作は、ここでも裏目に出てしまったことになります。
秀吉軍は加藤清正ら歴戦の戦国武将らの進軍によって朝鮮半島の主要な地域を次々に攻略したものの、寒さや飢えもあって次第に講和を望む声が高まりました。
小西行長や彼と同じキリシタンである内藤如安らはようやく本格的な和平交渉に臨むことができるようになります。
すでに秀吉軍によって朝鮮半島全域が荒廃してしまった後だけに、朝鮮ともその宗主国である明とも和やかな雰囲気で交渉できるはずもなく、双方の主張を折り合わせることは不可能に近いものがありました。
行長はまたも秀吉を欺く作戦に出ます。明を納得させるため秀吉のほうが降伏するという形での講和を目論んだ行長でしたが、その嘘は秀吉にバレてしまい、自分の要求が無視されたことに怒り狂った秀吉によって戦が再開されるという最悪の事態に陥りました。
これ以前が文禄の役で、講和決裂以降の戦いが慶長の役となります。
当初秀吉に死罪を言い渡されるほどの怒りを向けられた行長は、朝鮮を再び猛攻することでの挽回を命じられます。
朝鮮との平和な貿易を望み戦を避け続けていたはずの小西行長は、彼自身がさらなる破壊者となって半島へ渡ることになってしまいました。
大陸での戦いで抜け殻になったキリシタン
嘘で固めてまで成功させようとした数年越しの和平工作が無に帰すどころか再び戦火を炎上させて、結果的にさらに朝鮮半島を荒らすことになった小西行長の軍は、文禄の役序盤戦のような勢いはなく、それなりの戦果はあったものの最後は島津軍の助けによって命からがら帰国できたような状態でした。
秀吉の死によって、休戦時期を挟んで7年も続いた無益な戦がようやく終わった時、行長自身も彼の兵たちも疲弊しきっていました。
行長の本音は、今後はキリシタンとして信仰一筋に生き、放置したままの領国経営に専念したいといったところだったはずです。
ところが帰国後の行長を待っていたのは、豊臣政権下で行長と親しく交流していた石田三成と徳川家康との間に流れる不穏なムードでした。
利に敏い商人の勘が働いたのか、行長はいったん家康寄りになったとも言われますが、関ヶ原の戦場で彼が布陣することになったのは、石田三成の本陣と宇喜多陣との間でした。

関ヶ原の戦い:Wikipediaより引用
豊臣政権を支えるため苦楽を共にした身内のような人々と共に戦うことを選んだことになります。
関ヶ原では、前半宇喜多軍が善戦し西軍有利だったところ小早川軍の猛攻で総崩れになるといった流れの中、兵力的に劣るとされた小西軍が早々に崩れて西軍大敗を決定づけたとも言われます。
小西軍をカバーしようとした宇喜多軍が結局は支えきれなくなり先に崩れたとも言われ、足を引っ張るとまでは言えないものの、小西軍は兵の数に見合った働きが叶わなかったというのは事実と言われます。
大陸での戦いで小西軍は著しく消耗していた上、関ヶ原出陣のために急遽新たな人員を補充したものの訓練不足の寄せ集め兵だったことで、天下分け目の戦いに臨むには最初から無理があったとも考えられます。
ゆるしの秘跡を望み続けた最期

小西行長は負け戦の戦場から辛くも落ち延びますが、逃亡しきれないと判断したのか自ら捕まる道を選びます。
武将と言えど潔い切腹が許されないキリシタンに課せられた運命でした。
捕らえられてから死罪となるまでの10日ほどの間、行長には過酷な日々が続きました。
逃亡の恐れがないにもかかわらず首枷をはめられてしまった行長は、その留め具が邪魔になって寝起きも不自由となり、せめて鎖に変えてくれるよう懇願しますが冷たく却下されます。
行長が首枷からの解放よりも聞き入れてもらいたかった願いは、司祭による「ゆるしの秘跡」を受けることでした。
告解の秘跡とも呼ばれ、洗礼の後に犯した罪を告白してゆるしを受けるという、いわゆるざんげに当たるものでキリシタンにとっては重要な儀式です。
死を前にした行長にとってはキリシタンとしての最期を迎えるためにも欠かしてはならないものでした。
行長は、当時まだキリシタンだった黒田長政に、ゆるしの秘跡のため司祭に会う許可を出してもらえるよう懇願します。
長政はそれを家康に伝えたものの却下されたと言われ、行長最後の大切な願いはついに叶えられることなく処刑の日を迎えてしまいました。
刑場にあらわれた司祭も行長のそばに行くことは許されず、行長はキリストとマリアの聖画を頭上に掲げたのち首を討たれました。
行長は生涯にわたって数多くついた嘘を、ゆるしの秘跡によって、神からゆるしてもらいたかったのでしょうか。
そののち小西一族の多くも悲劇の運命をたどったと言われ、彼の領国は隣国の加藤清正の手に落ちました。行長の家臣らも加藤家に吸収されますが、元々キリシタン嫌いだった清正は徳川幕府の禁教政策が強化されるや家臣領民らに強く棄教を迫りました。
キリシタンの楽園になるはずだった行長の遺領は、それ以降激しく過酷な弾圧にさらされる地となってしまいました。
その悲劇を知らずに落命した行長は、むしろ幸せだったかもしれません。
まとめ

秀吉の天下統一とキリシタンの未来に希望を抱いていた時代の行長が領地とした小豆島には、現在オリーブの木々の間にスラリと高い細身の十字架が立っています。
かつて島に司祭を招き多くの領民をキリシタンに導いた行長が、瀬戸内を航行する船からも見えるようにと木製の高い十字架を建てていたことに由来して、小豆島布教400年記念の年に建てられたと言われます。
島の教会には高山右近の像があり、彼が隠れ住んだとされる地も整備され、島内全域にキリシタン遺物と思われる石塔などが点在していますが、領主だった小西行長の痕跡は皆無といえるほどありません。
オリーブと共にある十字架の由来と、島の北側、小西行長の屋敷があったと伝えられる岬に、屋形崎という地名が残されているばかりです。
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