夫婦愛が信仰の支え?キリシタン嫌いの毛利家に生きた小早川秀包

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『小早川秀』まで打つと予測変換で秀秋のほうが出やすいこともあって、毛利秀包表記のほうが彼のためにも良いかと一瞬迷いました。

とは言え人生のほとんどを小早川姓で過ごし、キリシタン嫌いで知られる毛利一族でありながらキリシタンになった秀包としても小早川姓のほうが馴染みが良かったのではと推測し、小早川秀包としての彼の人生を見て行きたいと思います。

小早川姓ですが秀包は毛利元就の九男で、元就が71歳の時に誕生しました。

甥で毛利家当主の輝元より14歳年下の叔父さんでもあります。

秀包は12歳で兄の小早川隆景の養子になり、元服後しばらくは元総と名乗りました。

智将の誉れ高い隆景が他の弟でなく秀包を選んだのは、父元就の資質を最も受け継ぐ有望株と見込んだからと言われています。

順調な武将人生を歩んでいれば、新時代の毛利両川として本家を支える重鎮になったはずの秀包に、運命を激変させる幾つかの岐路が訪れます。

有名武将が多い毛利家にあって秀包の知名度が今一つなのはなぜなのか、キリスト教との出会いは彼にとって災いだったのか。秀包の生き方を通して「幸せ」が何なのか、改めて考えたくなるかもしれません。

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小早川隆景に期待された異母弟

小早川隆景:Wikipediaより引用

毛利元就の九男として生まれた小早川秀包は、20歳年上の異母兄・小早川隆景の後継者として12歳で山陽の名門・小早川家の養子となりました。

兄であり養父となった隆景も元就の三男で父の意向で小早川家に養子として入り当主となっていました。

次男元春は山陰の雄・吉川家の養子になり毛利両川として、早世した兄・隆元の子で若くして毛利家を継いだ輝元を補佐していました。

元就亡き後、実質的に毛利家中をまとめていたのは両川である二人の叔父で、特に智勇兼ね備えた名将と謳われ人望も集めていた小早川隆景は毛利家に無くてはならない存在でした。

その隆景に見込まれた秀包が一流の武将となるよう英才教育を受け、兄の期待に応える才能を開花させていたらしいことは、のちに羽柴秀吉に気に入られたことからも推測できます。

秀包は毛利からの人質として羽柴家に出されました。

共に人質となったのは6歳年上の甥で当時は経言と名乗っていた吉川広家です。

秀吉は経言のほうはすぐに吉川に帰したものの、秀包のほうは秀の字を与えるほど気に入ってしばらく側に置いて厚遇します。

少し前までは秀吉にとって強大な敵だった毛利家ですが、時流を読むことに長けていた小早川隆景は急速に秀吉との距離を縮め、秀吉政権下での毛利家の立場を有利にする方向に政策の舵を切っていました。

一方で兄の吉川元春のほうは秀吉を嫌い歩み寄ることを避けていたため、秀吉サイドも秀包と経言への対処を変えたとも考えられます。

同じ方向を向いて当主輝元を支え続けていた毛利両川は秀吉によって流れを変えられ、のちに毛利の運命を激変させることになりますが、秀吉に気に入られ、ほどなく大名に取り立てられるほどにもなった10代の秀包には、想像すら及ばないことでした。

キリシタンになった毛利次世代のホープ

秀吉の元でも期待の新鋭武将として活躍するようになっていた小早川秀包は、多くのキリシタン武将にとって大変な転機となる九州の陣に従軍した折キリスト教に入信し、シモンという洗礼名を授かります。

彼を受洗に導いたのはその頃自分の息子や弟にもキリスト教を勧めまくっていた黒田官兵衛です。

黒田官兵衛:Wikipediaより引用

官兵衛の洗礼名はシメオンですがシモンも表記は同じらしく、宣教師たちが秀包を官兵衛に続く西国の重要信徒と考えて期待を寄せていた気配がうかがえます。

何しろ秀包はキリスト教嫌いで知られる毛利家の次世代を担う人物だけに、彼がキリシタンになったことで、布教が進まずにいた毛利領で新たな信者を獲得する可能性が広がります。

その頃の官兵衛は秀吉と毛利家を繋ぐ役割をも担っており、秀吉への対応に心を砕いていた毛利家中で頼られつつ、畏怖の対象にもなっていた気配があります。

その官兵衛の勧めによる受洗を秀包は断れなかった面があったかもしれません。

当時、官兵衛との交流もあって小早川隆景のキリスト教への態度も和らいでおり、官兵衛の要請で宣教師の船舶移動に便宜を図るほどになっていました。

厳しい兄であり養父でもある隆景の意向を気にしていた秀包としてもその点安心して官兵衛の勧誘に従ったとも考えられますが、入信からわずか2ヶ月後に発布されたバテレン追放令によって棄教を余儀なくされます。

同じ時期に洗礼を受けた黒田長政や大友義統と同様の行動をとったことになりますが、ほどなく秀包はある女性によって真の信仰心に目覚めることになります。

祝福されたロミオとジュリエット

九州の陣で入信後すぐ棄教という残念キリシタンになった秀包ですが、戦功によって久留米領主になった上、花嫁を迎えるというおめでたい展開に恵まれます。

花嫁は大友家の姫で秀吉の養女として秀包の元に輿入れして来ました。

大友の姫でしかもキリシタンという点で、養父隆景や毛利当主輝元は困惑したかもしれません。

毛利家と大友家の間には領土や親族間の遺恨など複雑な因縁と確執があり、九州の陣では大友家を助ける形で秀吉の元で戦った毛利ですが、大友家との融和は困難なものがありました。

秀吉としては遠からぬ未来に実行予定の大陸出兵のためにもより良い形で九州の大名らをまとめておく必要があり、秀包と大友の姫との結婚で、両家を一気に丸く納めようとした節があります。

バテレン追放令は初期段階で個人の信仰は黙認される方向に緩和されていたため、大友の姫は敬虔なキリシタン女性マセンシアとして秀包の前に現れました。

マセンシアは大友宗麟の7番目の姫で、異母妹という説もありますが兄の義統同様に迫害者イゼベルこと奈多夫人の娘とされています。

キリスト教を嫌っていた母の影響を受けていたはずのマセンシアが入信したのは、早くから熱心な信者だった乳母カタリナの導きによってでした。

ベテランのキリシタンとも言えるカタリナを連れて輿入れして来たマセンシアは、いったん洗礼を受けたものの教義を学ぶ間もなく棄教した夫秀包に信仰の素晴らしさを説きます。

秀包20歳と3つ下の新妻はすぐに仲睦まじい夫婦になったようで2年後には嫡男元鎮を授かり、秀包は我が子に洗礼を受けさせるため宣教師の派遣を要請するほどの信仰心を持つようになっていました。

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差し替えられた小早川家の後継者

小早川秀包は大友宗麟の娘マセンシアとの結婚で真のキリシタンとなり、生まれたばかりの嫡男にも洗礼を受けさせました。

息子元鎮はマセンシアの亡き父大友宗麟の洗礼名と同じフランシスコとなり、久留米城下にも新たな信者が増えキリシタンらの希望の地となって行きました。

かつての敵でありキリシタン嫌いで知られる毛利家に嫁ぎながらも真っ直ぐな信仰心に満ち溢れた宗麟の娘は、夫の心を愛によって変えその後も支え続けたことになり、棄教後放埓に生きていた兄義統とは対極的な生き方を貫いていたと言えます。

秀包は当初マセンシアの勧めにもかかわらず再び信仰の道に戻ることをためらっていたと言われます。

官兵衛との縁でいったんはキリスト教に理解を示していたものの、バテレン追放令以降再びキリシタンに冷淡になっていた養父隆景の機嫌を損ねることは、彼の後継者である秀包の立場を危うくする恐れもありました。

ところが秀包の未来は信仰とは違った理由で激変することになります。

文禄の役での戦功で加増されるなど、小早川家を継ぐ者として申し分ない活躍をしていた秀包は突如、小早川家当主の座を豊臣家から来た秀俊に奪われることになります。

小早川秀秋:Wikipediaより引用

のちの小早川秀秋になる人物です。

実子秀頼が生まれて養子を整理したくなった秀吉が、当初毛利輝元の養子にと押し付けようとしたのを小早川隆景が回避するかのように、小早川家の養子にと願い出ました。

聡明な秀包は隆景の苦渋の決断を理解し、別家の当主となる形での廃嫡を受け入れます。

隆景の後継者になる道は閉ざされてしまいましたが、久留米は引き続き秀包が治めることになり、今後は隆景からの重圧も無く、愛するマセンシアと共にキリシタン理想郷を築こうと考えていたかもしれません。

毛利家と一蓮托生で受け入れた運命

関ヶ原の戦いは従来、秀吉亡き後の豊臣政権の混乱に乗じる形で政権を掌握しようとした徳川家康とそれを阻止しようとした石田三成の戦いといった見方をされていましたが、近年、お飾りの総大将として三成に担ぎ出されたという印象だった毛利輝元が、実はかなり積極的に天下を狙っていたらしいことが取り沙汰されるようになっています。

その視点で考えると、隆景亡き後の小早川家を継いだのが秀包だった場合、東西の勝敗はどうあれ状況は大いに変わっていたと考えられます。

小早川軍を率いて関ヶ原主戦場で秀秋がとった行動と、輝元の思惑とは違う形で毛利家存続のために奔走した吉川広家によって結果的に毛利は敗者となり、大国の主の座を追われることになりました。

秀包は毛利軍として大津城攻めで奮戦しましたが、久留米を出陣する折何か思うところがあったのか城に残るマセンシアや子ども達、家臣らのことを敵方になるであろう黒田家に託そうと考えていた節があります。

実際、西軍方の城として周囲から攻められ苦境に立たされていた久留米城を開城したのは黒田軍で、秀包の家族らの安全を保障し城に入ったのは人徳あるキリシタンとして多くの人に慕われていた官兵衛の弟黒田ミゲル直之でした。

黒田直之:Wikipediaより引用

秀包とミゲル直之は同時期に洗礼を受けたこともあり、秀包にとって最も心強い人物が家族を守ってくれたことになります。

ミゲル直之はのちにマセンシアらを山口の毛利領に無事送り届け、黒田家に人質として残った秀包の娘のほうは黒田家の養女に貰い受ける形にし、姫君として遇しました。

関ヶ原では敗軍の将になりましたが、秀包は新たな地で家族らと生きることに希望を見出そうとしていたはずです。けれども、それすらも叶わない運命が秀包に訪れます。

突然の別離と隔てられた永眠の地

関ヶ原の敗戦後、秀包は毛利輝元から現在の山口県である長門国にわずかな所領を与えられました。

輝元も領国の大半を失い、改易寸前のところを吉川広家の家康への嘆願によって救われ、やっとの思いで大名としての体面を保つような状態に追い込まれていました。

秀包は小早川秀秋の裏切り行為によって貶められてしまったかのような小早川姓を捨て毛利秀包となり、戦後処理を経てようやくマセンシアや子ども達と再会します。

ところがその時すでに秀包の身体は重い病にむしばまれており、療養の甲斐もなく、家族との再会から一年も経たないうちに35歳の若い命を終えることになりました。

夫亡き後、秀包の跡を継いだ嫡男フランシスコ元鎮ら子ども達と毛利領国で生きることになったマセンシアは、徳川家のキリスト教禁教の動きに元来のキリシタン嫌いをさらに強めることになっていた輝元から再三にわたって棄教を迫られます。

マセンシアは頑として受け入れず、やがて輝元も根負けして彼女の信仰を黙認するようになりました。

マセンシアは秀包の死から50年近く長生きしたのちに亡くなりますが、禁教の嵐が吹き荒れる江戸時代初期にあって最期まで信仰を守り続けていたと考えられ、そのため禁忌の存在とされたのか毛利一族の墓所から離れた山中に埋葬されました。

夫秀包の墓所からはさらに遠い地で、愛と信仰の強い絆で結ばれていたキリシタン夫妻は、地上では共に眠ることが叶わなかったことになります。

天に昇ったマセンシアは、すぐに秀包と再会できたでしょうか。

まとめ

小早川秀包がキリシタンにならず、秀秋に家督を奪われていなければ、もう少し後世に名が知られる人物になっていたかもしれません。

温和な知性派キリシタンのイメージがある秀包ですが、現代でも人気が高い剛将立花宗茂と戦場で気が合って義兄弟の契りを結んだという一面も持っています。

武勇にも優れ、特に鉄砲術の名手だったとも伝わる秀包は、隆景が見込んだ通り智勇を兼ね備えた一流の戦国武将になっており、順調に小早川家を継いでいれば華々しい活躍ぶりがもっと後世に伝えられていたように思われます。

とは言え、人気武将としてもてはやされるより、妻や子ども達への愛と信仰に生きた知る人ぞ知るキリシタン大名でいいと、秀包もマセンシアも天国で思っている気もします。

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