今回はキリシタン武将の明石全登こと明石掃部の気になる生存説を検証してみます。
大坂の陣で真田信繁らと共に五将に数えられ、豊臣家のために徳川家を相手に最後まで戦った明石掃部は、キリシタン武将としても知られています。
善戦空しく豊臣家は滅亡し多くの将兵や民間人も亡くなりましたが、徳川家の厳しい探索にもかかわらず明石掃部の生死はついに謎のまま時が過ぎ、その後も生存がささやかれることになりました。
生存説が有力視されたのは明石掃部がキリシタンだったことに理由があります。自殺を禁じるキリスト教の教えに従って切腹などをせずに戦場を離脱し、生き延びた可能性も十分考えられたからです。
明石掃部が生まれた下剋上の時代
戦国時代はヨーロッパからキリスト教が伝来したことで、人々の宗教や命についての考え方が大きく変わった時期でもありました。
日本各地の戦国武将たちは鉄砲など武器の獲得をはじめ海外交易による利益を手にするため、商人との仲介役でもあった宣教師の勧めに従って領主以下キリスト教に改宗する人が急増しました。
いつの世もきっかけは物欲です。
武将たちは入信するにあたってこれまで常識と思っていた幾つかの行いを禁じられることになり戸惑いますが、特に彼らを悩ませたのが自殺を禁じる戒律です。
万が一の場合、潔く切腹することが武士の鑑とされていただけに、この点で入信をためらう武将も多かったと言われます。キリシタンになる前の明石掃部もそんな武将の一人でした。
明石掃部は今の岡山県にあたる備前で勢力を伸ばしていた明石行雄という武将の跡継ぎとして生まれました。
明石行雄は元は浦上家という名家の重臣でしたが浦上家にとって代わろうと暗躍していた宇喜多直家に協力して主君だった浦上宗景を他国に追い出すに至りました。
宇喜多は明石の協力で下剋上を成功させたことになります。以来宇喜多直家は明石行雄を譜代の家老とは別格扱いの客将として元々の広大な領地や権利等はそのままに重臣として信頼するようになりました。
明石掃部の生まれた年ははっきりわかっていませんが、西暦1569年頃と推測されており、物心ついた頃には明石一族はすでに宇喜多の勢力下にあったと考えられています。
宇喜多秀家と共に豊臣家の栄光を見た明石掃部

まさに戦国乱世の下剋上を行い備前の主になった宇喜多直家でしたが病魔には勝てず、当時まだ幼かった跡継ぎの秀家を残して他界します。
その頃の備前は織田軍として東から侵攻して来た羽柴秀吉軍と、中国地方で強大な勢力を誇っていた西の毛利軍とがぶつかり合う最前線となっていました。
宇喜多は秀吉軍に従っており、織田信長の死によって明智光秀と対決するために秀吉が京都方面へ急遽軍を引き上げた時にも大いに協力して信頼を得ることになりました。
その折すでに直家は亡く、宇喜多軍を実際に指揮していたのは三家老と呼ばれる重臣たちと明石掃部の父・行雄でした。
明石掃部は宇喜多が裏切らないための人質として秀吉軍と同行し、当時秀吉が本拠としていた姫路城にしばらく留め置かれたとされます。
明石掃部は元服前と見られることから15歳より前の年齢だったと考えられ、多感な時期に栄光をつかもうとする秀吉を間近で見ていたことになります。
主君信長の敵討ちを成功させてからの秀吉はライバルたちを蹴散らして信長の後継者となり、やがて天下を手に入れます。天下平定への戦いには常に宇喜多軍が協力しており、秀吉のブレーンとされる黒田官兵衛との縁も深かった明石行雄も大いに助力したことが考えられます。
実子の無かった秀吉は多くの養子を迎えましたが特に宇喜多秀家がお気に入りだったと言われ、宇喜多家の当主ということで正式な養子にはできませんでしたが養女と結婚させ豊臣一門として厚遇し続けました。
明石掃部はやがて秀家の姉と結婚し宇喜多との縁をさらに深め、豊臣家を支える武将の一人として青年時代を送りました。
宇喜多詮家からの熱心なキリシタン勧誘

明石掃部は宇喜多一族として豊臣家のために働く機会もたびたびあったことが推測されますが、彼が28歳頃と言われる1596年にも大坂城の改修工事を指揮する奉行として大坂暮らしをしていました。
そんな明石掃部にキリスト教入信を熱心に勧めるいとこがいました。
母方のいとこである宇喜多詮家です。
のちに坂崎出羽守と呼ばれる詮家は宇喜多秀家にとっても年上のいとこで父親の宇喜多忠家と共に宇喜多一族の実力者でした。
詮家は優れた武将ではありましたが少々直情的な性格だったと言われ、秀吉が数年前に発したバテレン追放令によってキリスト教は表向き禁じられていたにもかかわらず、自らが入信したてのキリスト教に心酔し信者ぶりを派手にアピールして宣教師を困らせるほどでした。
詮家は自分のマイブームにいとこの明石掃部も巻き込むべく勧誘を重ね、根負けした掃部は教会で司祭から話を聞くことにしました。
結果、強く心を動かされた明石掃部は真剣に入信を考えるようになりますが、熱血いとこ詮家と違い直後の洗礼を勧める声を制して冷静に考える時間を持つことにしました。
掃部には、これまでの宗教を捨てて別の教えに従うのは人の上に立つ身分の者が行うことではないという信念があり、キリスト教の戒律に従うことができるかどうかという不安もあったとされます。
もしもの事態が起こった時、武士としての潔い切腹が許されないということも、真面目な人柄がうかがえる掃部を悩ませたことが想像できます。
キリシタン明石掃部の生涯を運命づけた事件
熱血いとこ宇喜多詮家のゴリ押し勧誘があったものの、最後は自分の意志で洗礼を受けた明石掃部はジョアンという洗礼名を授けられ、キリスト教の教えを学びながら信仰を深めていきました。
ほかのキリシタン達とも交流を深めるようになっていた明石掃部はやがて大きな事件に遭遇します。
嵐のため四国に漂着したスペイン船の乗組員が、西欧諸国がまず宣教師を派遣してキリスト教徒を増やしたのち植民地化を行うといったことを口走り、それを伝え聞いた秀吉が激怒、宣教師や信者を捕らえるよう命じました。
この時捕縛されかけていた2名の宣教師を明石掃部は自ら潜伏先に出向いて逃がすことに成功します。
さらに掃部は、京や大坂で捕らえられ長崎で処刑されることが決まった26名の宣教師や信者らが宇喜多領を通過する際の護送役をも買って出ました。
長崎へ向かうキリシタンの中には安土のセミナリオで学んだ経験もあるパウロ三木がおり、入信したばかりの明石掃部にとっては尊敬する先輩のような存在でした。
パウロ三木に再会した明石掃部は彼の手を取って人目をはばからず涙を流したことが伝えられています。
明石掃部は自らも26名と共に殉教することを望んだとされますが、秀吉に近しい宇喜多一族の重臣として個人の感情で決められるものではなく、国境で26名を毛利の護送役に引き渡し見送るばかりとなりました。
入信したばかりのキリシタンは特に熱い信仰心を抱くと言われますが、まさにその時期にあった明石掃部が経験した26名との触れ合いは、彼のキリシタンとしての後半生を決定づけたと考えられます。

やがて長崎で処刑された人々は後世バチカンから正式に聖人と認められ日本二十六聖人として今も讃えられる存在になっています。
関ヶ原の敗戦と流転の運命

のちの二十六聖人との別れの悲しみに浸る間もなく、明石掃部は激動の運命に揉まれていきます。
掃部がキリシタンになる以前から宇喜多家には不穏な空気が流れていました。
重臣らの一部が主君秀家に不満を募らせるようになっており、秀吉の死によってその不満が一気に噴出した結果、重臣の多くが宇喜多家を去ることになりました。
その重臣の中には熱血キリシタン宇喜多詮家の姿もあり、宇喜多一族そのものが分裂する深刻な事態に陥りました。
重臣の多くを失い困り果てた秀家が頼ったのがいとこであり義兄でもある明石掃部でした。
秀家は掃部に宇喜多家中の立て直しを頼み、明石掃部は領内の財政再建や重臣もろとも去ってしまった兵力を補充するための人材確保にも奔走しました。
宇喜多家が軍の立て直しを早急に行う必要があったのは、徳川家康の脅威に対抗するためもありました。
宇喜多家中騒動が起こったのは、関ヶ原の戦い前夜ともいうべき時期だったのです。
関ヶ原の結末はいわゆる西軍の惨敗に終わり石田三成に協力した宇喜多は取りつぶしが決まりました。
戦場で秀家を先に逃した明石掃部は何とか落ち延びることに成功し、数か所での潜伏を経て九州の黒田家を頼ることになりました。
当主黒田長政は関ヶ原で徳川を勝利に導く働きをしたおかげで福岡一帯で52万石もの太守となっていました。
長政の父・官兵衛は隠居の身ながら長政の反対を押し切って、弟・黒田直之の領地である秋月近辺に掃部住まわせます。
官兵衛も直之も熱心なキリシタンで彼らはその地をキリシタンの楽園にしたい意向があり、多くの信者から慕われていた明石掃部を迎えることはむしろ喜ばしいことでした。
秋月で明石掃部は家族や家臣らと共にキリシタンとしての平穏な数年間を過ごすことができました。
けれどもその穏やかな日々は官兵衛と直之の相次ぐ死によって失われることになります。
キリシタンの未来のため大坂入城へ
明石掃部が現在の福岡県である筑前秋月の黒田領内で信仰の日々を送っていた時期、大坂城で権威を保とうとしていた豊臣家は徳川家康によって次第に追い詰められていました。
それと同時に家康はキリシタンの増加を不安視し本格的な禁教を進め日本のキリシタンの未来が閉ざされようとしていました。
徳川への臣従を誓っている黒田家は熱心なキリシタンだった官兵衛や直之の死を機に領内からのキリシタン一掃を実行し、明石掃部は家族らと共に九州を後にしました。
その後再び流転の日々が続き京に落ち着いたところで豊臣家から招かれ、明石掃部の名を慕って集まった多くのキリシタン兵とともに大坂城へ入りました。
かつて豊臣家の栄光の元で宇喜多の重臣として青年時代を送った明石掃部にとっては豊臣家のために戦うのは本意であると共にキリシタンの未来のために戦う決意をも新たにしていました。
完全に徳川の世になってしまった場合キリシタンの生きる場所は日本には無くなってしまうからです。
明石掃部は真田信繁ら歴戦の武将らと共に大坂冬の陣で善戦するものの形ばかりの講和ののちに起こった大坂夏の陣で最後の戦いに臨むことになりました。
徳川の謀略によって大坂城の壕は埋め立てられ防御の機能を完全に失っており、落城が時間の問題であることは戦況を知る誰もが予想していました。
そのまま豊臣方として戦えば大半の者は生き残れないであろうことは明石掃部にもわかっていたはずです。
それでも最後まで大坂城に留まらざるを得なかったのは、自分も家族も配下のキリシタン兵らも徳川の世では生きられないことをも悟っていたからと考えられます。
豊臣方最後の戦闘で明石掃部は三男をはじめ多くの家臣を失い、残った兵と共にかろうじて大坂城に戻ったと見られています。
やがて城内へ乱入してきた徳川軍の猛攻によって城に残っていた多くの人が乱戦のなか命を失うことになりました。明石掃部もその一人だったのではないかと推測されています。
城内には掃部の老いた母親や娘がおり、逃がそうしたものの途中で力尽きてしまったのかもしれません。
まとめ

その後長く生存説がささやかれ徳川家が明石狩りと呼ばれる探索を繰り返したこともあって、故郷近くをはじめ幾つかの地で明石掃部の生存伝承が生まれました。
国外へ逃れたという説までありますが、少ない史料から見えてくる明石掃部の人柄や残された彼の子ども達の運命から、彼の命は豊臣家の終焉と共に失われてしまったと考えるほうが自然です。
その後も繰り返された明石狩りで捕まってしまい悲しい運命に見舞われたのは明石掃部の子どもや孫でした。
身内を放置して自分だけが国外逃亡をする人ではないと思えるだけに、明石掃部生存説はかえって彼に失礼な気がします。
殉教ではなくキリシタン弾圧への抵抗とも言える戦いに身を投じた明石掃部は、現代のキリスト教徒からはあまり顧みられない存在になっています。
後世での己の名誉よりも、多くのキリシタンのために命を捧げることを選んで戦い、人知れず落命したと考えられる明石掃部は、まさしくキリシタンの鑑と思えます。
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