関東の戦国時代の遠因!? とことん室町幕府を嫌った男・足利持氏

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足利持氏(あしかがもちうじ)は、その名の通り、足利将軍家の血を引く人物です。ただ、彼は将軍になることはありませんでした。彼は鎌倉公方(かまくらくぼう)として、徹底的に幕府と対立する人生を歩んだのです。そして、その強すぎる自己主張が、自身の破滅を招いたといってもいいのかもしれません。さて、どんな人物だったんでしょうか。

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鎌倉公方と室町幕府

持氏は、応永5(1398)年に第3代鎌倉公方・足利満兼(あしかがみつかね)の息子として生まれました。

 

まずは鎌倉公方についてご説明しましょう。

鎌倉公方の始まりは、室町幕府の創設者・足利尊氏(あしかがたかうじ)の四男・基氏(もとうじ)からになります。

室町幕府は京都に開設されましたが、関東にも目を光らせる必要がありました。そのために設置した、出先機関のようなものが鎌倉府で、その長が鎌倉公方なんです。補佐役をつとめたのが関東管領(かんとうかんれい)でした。

 

この鎌倉公方、最初のうちは幕府や将軍とはうまくやっていたんですが、元々「自分も足利尊氏の血筋」というプライドがあったので、自分だって将軍と地位的に遜色ないだろうという思いがあったみたいなんですよ。そのため、両者の仲は徐々に険悪なものになっていったんです。2代目と3代目の時にはすでに、幕府に対して挙兵しようという動きまで見せていたんですよ。

 

そんな鎌倉公方の家に生まれた持氏ですが、父・満兼が32歳の若さで亡くなってしまい、12歳で急遽公方の座に就くこととなりました。応永16(1409)年のことです。

 

上杉禅秀の乱で鎌倉を追われる

幼くして鎌倉公方となった持氏は、叔父である足利満隆(あしかがみつたか)の補佐を受けていました。ところが、この満隆が持氏に対して謀反を企てているという噂が立ち、持氏は当時の関東管領・上杉憲定(うえすぎのりさだ)の元に逃げ込むという事態が起きたんです。この事件自体は憲定が間に入ったため一応収まりましたが、後に禍根を残すこととなりました。

 

その後、新たに関東管領となった上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)と持氏の仲はしっくりいかず、やがて持氏が禅秀を疎んじるようになります。この頃禅秀は関東管領を辞任していますが、もしかするとクビだったのかもしれません。そうでなくても、持氏がイヤだから辞めたのかもしれませんね。

 

そして、禅秀は持氏に対してクーデターを起こしたんです。禅秀に加担したのは、かつて謀反を起こすという噂が流れた叔父の満隆と、持氏の実弟・持仲(もちなか)でした。これが「上杉禅秀の乱」です。

これによって持氏は鎌倉を追われることとなってしまいました。さぞかし屈辱だったことでしょう。

 

この乱に対して、幕府は持氏を救援するための討伐軍を派遣します。仲が悪いとはいっても一応は将軍と鎌倉公方ですから、表立って対立するわけにはいきませんからね。そのおかげで乱は鎮圧され、持氏は鎌倉に戻ることができました。

 

幕府はやっぱり気に入らない!

 

さて、鎌倉に戻り公方としての政務に励もうとした持氏ですが、上杉禅秀の後任にした管領・上杉憲基(うえすぎのりもと)が急死してしまいます。ちなみにこの憲基、幼い持氏が叔父に追われ逃げ込んだ上杉憲定の息子です。

このため憲基の息子が跡を継いだのですが、まだ10歳という幼さでした。

この人こそ、上杉憲実(うえすぎのりざね)。持氏の最期に深く関わってくる人物なんです。

 

とりあえずこの時は、持氏20歳・憲実10歳というあまりにも若い公方と管領のコンビで鎌倉府を運営していくことになりました。

 

しかし、持氏には引っかかっている点があったんです。

上杉禅秀の乱の際、持氏に敵対した勢力の中には、将軍と直接主従関係を結んでいる「京都扶持衆(きょうとぶちしゅう)」がいたんですよ。将軍の足利義持(あしかがよしもち)は持氏救援のために討伐軍を派遣していたんですが、この京都扶持衆に対しては、ひそかに上杉禅秀方に付くことを認めていたんです。どこまで仲悪いんでしょうか。

 

これを知ってしまった持氏、当然、激怒しました。

そこでまず、日ごろから彼に反抗している京都扶持衆のひとり・小栗満重(おぐりみつしげ)を大軍で叩き潰し、見せしめとしたんです。

 

すると、これに怒ったのは将軍・義持。一時は持氏討伐まで考えたんですが、持氏が「いちおう」謝罪したので、この時は矛を収めました。まあ、持氏だって謝っている裏では舌くらい出していたでしょうが。

 

こんな状態なので、将軍・幕府と鎌倉公方の対立は解消されるわけもありませんでした。

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将軍継嗣問題に敗れてキレる

応永32(1425)年、5代将軍・足利義量(あしかがよしかず)が19歳で亡くなりました。その3年後には、大御所として権勢を誇っていた義持も亡くなります。

当然、ここで起こるのが、「次の将軍どうするよ問題」。

 

ここで名乗りをあげたのが、持氏でした。

というのも、持氏は義持の猶子となっていたとも言われているんです。猶子とは子供扱いですが、相続権を持たない場合もありますし…と言っても、「鎌倉公方として尊氏の流れを汲んでいるのだ!」というプライドに突き動かされている持氏にそんなことが通用するはずもなく、持氏は自分にも権利があると主張します。

 

しかし、幕府の管領(将軍の補佐をする役割)やお偉いお坊さんたちの協議の結果、義持の4人の弟の中から、なんとくじ引きで将軍を決めることになったんです。

足利義教(義円):Wikipediaより引用

そして選ばれたのが、僧侶だった義円(ぎえん)でした。彼が還俗し、6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)となったんです。

 

とはいっても持氏は不満タラタラ。そのため、義教を「還俗将軍」と見下し、祝いの使者も送りませんでした。また、元号が変わったのに関東では相変わらず前のものを使い続けたり、将軍が任命する鎌倉の格式ある寺の住職を勝手に任命したりと反抗し放題。

 

これには将軍・義教もムッとしたことでしょう。

しかし、この人を敵に回しちゃまずかったんです。義教、前身がお坊さんとは思えないほど苛烈な専制君主で、「万人恐怖」とまで言われた人だったんですよ…。

 

持氏、自滅

こんな「超」犬猿の仲の二人の間をどうにか取り持とうとしていたのが、関東管領・上杉憲実でした。持氏が改元を無視したことに謝罪したり、武装して上洛しようとした持氏を止めたり、持氏が息子の元服の際に将軍の一字をもらう通例を破った時にはそれを制止したりと色々頭を痛めていたんですが、これがすべて無駄だったんですね。

そのため、憲実は職を辞して領地の上野平井城(群馬県藤岡市)に帰ってしまったんですよ。

 

持氏はそんな憲実が自分に反逆したとみなし、討伐軍を送ったんです。これが「永享(えいきょう)の乱」です。憲実、あんなに色々やってくれたのに…!

となると、将軍・義教は持氏をつぶす口実ができたわけで、喜んで討伐軍を派遣します。その上、天皇に持氏追討令を出させ、彼を朝敵に仕立て上げてしまったんです。

 

こうなっては、持氏は不利。味方の裏切りも相次ぎ、孤立した彼は進退窮まってしまいました。

出家し幽閉された持氏を、なんと憲実は救おうと懸命に義教に助命嘆願します。どこまでいい人!

しかし義教は、持氏を絶対に許すことはないと、憲実に対して持氏討伐を命じたのでした。

かつての主を攻めるのをためらっていた憲実ですが、このままでは持氏加担の容疑を着せられてしまいます。そして彼の兵は持氏が幽閉された寺を攻めたのでした…。

足利持氏の自害の図(結城合戦絵詞より):Wikipediaより引用

持氏はそこで自害します。享年43。息子も相次いで自害して果てました。

ここに、永享の乱は終わりを迎えたんです。

 

その後ですが、永享の乱は尾を引きました。

持氏の遺児が担ぎ出されて結城合戦(ゆうきかっせん)が起こりましたし、後に鎌倉に復帰した持氏の息子・成氏(しげうじ)は鎌倉府を再興しましたが、関東管領とのゴタゴタから享徳(きょうとく)の乱を引き起こします。そして関東はこのまま戦国時代へと突入していったんですよ。

 

まとめ

  1. 室町幕府と仲の悪い鎌倉公方の跡継ぎとして生まれた
  2. 上杉禅秀の乱で鎌倉を追われるなど、若い頃は苦労した
  3. 幕府と将軍への反抗心を燃やしていた
  4. 将軍継嗣問題に敗れ、不満爆発
  5. 永享の乱を起こしたが、幕府軍の前に敗れ去った

 

持氏が起こした永享の乱は、息子・成氏による享徳の乱の伏線となっています。享徳の乱は関東における戦国時代の幕開けとも言われていますから、持氏が戦国時代到来の遠因となったといってもいいのではないでしょうか。

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