室町幕府の将軍って、正直、尊氏と義満以外パッとしないような気がしませんか?
義教(よしのり)はクジ引きだし、義政はあんなんだし、最後の義昭もビミョーでしたよね。
しかし、義昭の兄に当たる13代将軍・義輝(よしてる)は、一味違いました。
剣豪レベルにまで自分の技を磨き、失った幕府の権威を取り戻そうとしたんですよ。しかし、時代は彼に味方しませんでした…。悲劇の将軍・足利義輝の一生をご紹介したいと思います。辞世の句で、泣いてください…!
地に落ちた将軍家
応仁の乱以降、室町幕府と将軍の権威は地に落ち、管領(かんれい/幕府のNo.2を担う役職)など有力大名が実権を握っているような状態でした。将軍は、そうした勢力に対抗しては都を追われる…というパターンが多かったんですよ。
足利義晴:Wikipediaより引用
義輝の父である12代将軍・義晴(よしはる)もそうでした。管領・細川政元(ほそかわまさもと)の力に勝てず、近江(滋賀県)に逃げては頃合いを見計らって戻る、の繰り返しだったんです。実は祖父の11代・義澄もまた近江に追われてそこで亡くなっています。
そんな中、天文5(1536)年に生まれた義輝は、父に従ってこうした逃亡劇を何度も経験してきました。幕府の威厳など何もない状況で、幼いながらも屈辱感は味わっていたはずです。
そのため、元服したのも京都ではなく近江でした。そして、義輝は11歳で元服し13代将軍に就任します。少し早いですが、父は大御所として健在でした。
この頃の義輝の名前は「義藤(よしふじ)」ですが、便宜上、義輝で統一しますね。
元服からしばらくして、細川晴元との和睦が成立すると、ようやく義輝は父と共に京都へ戻ることができました。
しかし、今度は新たな敵が出現したんです…!
因縁の相手・三好長慶の台頭
三好長慶:Wikipediaより引用
細川晴元の家臣に、三好長慶(みよしながよし)という人物がいました。これがなかなかの食わせ物。晴元との間に少し不和が生じたのをきっかけに、細川同族の細川氏綱(ほそかわうじつな)を担いで晴元を攻めたんです。
この時、義輝と義晴は和睦成立していた晴元と行動を共にしていたため、またも近江へ逃げなくてはなりませんでした。どこまで不運…! その上、父・義晴は無念のまま近江で亡くなってしまったんです。義輝15歳。父の無念を心に深く刻んだことでしょうね。
しかし、勢い盛んな三好長慶に少年将軍が対抗できるわけもありません。部下を三好暗殺に派遣しますが、それもうまくいきませんでした。
ここで、義輝は苦渋の選択をします。
三好長慶との和睦でした。しかも条件が、細川氏綱を管領にすること。
つまり、氏綱を担いだ三好が政権を運営するのを認めたも同然だったんですね。
その上に担がれる形となった義輝は、まさに三好の傀儡とならざるを得なかったんです。
三好長慶のカベが厚すぎ
しかし、義輝は傀儡に甘んじるという気持ちにはならなかったようです。
管領を解任された細川晴元と結ぶと、再び三好長慶に戦いを挑みました。
ただ、またもあっさりと敗戦し、再び近江へ逃れることとなってしまったんです。いったい何度、近江に逃れたんでしょう。良く言えば粘り強く、悪く言えば…学ばないっていうか、しぶといですね。
以後5年間を近江で過ごした義輝ですが、やはり三好長慶を倒すことはできませんでした。
そして、永禄元(1558)年、幕府で細川氏と並び重鎮だった六角義賢(ろっかくよしかた)が間に入る形で、義輝は再び三好長慶と和睦を結び、京都へ戻ることになりました。
今回は、三好側も表立って対立したくはなかったらしく、長慶の息子は義輝の字をもらって義長(よしなが/後の義興)と名乗っています。
一応、表面上は対立もなく、時間が過ぎて行きました。とはいえ、水面下で、義輝は将軍の権威回復を図っていたんです。
我こそが将軍! 権威回復への努力
義輝は、表面上は長慶の言うことを聞きながらも、将軍の権威回復のために少しずつ動き出しました。
まずは、将軍として各地の戦国武将たちの調停役を買って出たんです。
武田信玄と上杉謙信の間に入ったり、九州の島津氏と大友氏をなだめたり、徳川家康(当時は松平)と今川氏真(うじざね)の間を取り持ったり…と、おせっかいなほどにいろんな戦の調停をしています。また、武将たちも、権威を失っているとはいえ「室町幕府将軍」の威光には従わざるを得ませんでしたから、一応は義輝の目論見は成功したと言えるかもしれません。
また、義輝は各地の武将たちに、かなり積極的に自らの名前の一字を与えています。これが「偏諱(へんき)」といい、主従関係の証です。
三好長慶の息子・義長や九州の雄・島津義久(しまづよしひさ)、出羽の最上義光(もがみよしあき)などは「義」をもらっていますね。それだけではなく、「輝」も多いんですよ。毛利輝元とか、伊達輝宗(政宗のパパ)とか、上杉謙信も謙信を名乗るまでは「輝虎」と名乗っています。細川忠興(ほそかわただおき)の父・藤孝(ふじたか)は義輝の旧名・義藤の「藤」をもらっていますし、もう、全国各地に彼の名前がばらまかれた感じです。
しかしそれだけ、将軍としての権威を誇示したかったんでしょうね。
三好長慶の死、そして新たな敵・松永久秀登場
松永久秀:Wikipediaより引用
さて、義輝にとっては因縁の相手・三好長慶ですが、弟や息子を相次いで失うと、気力をなくしてやがて病没してしまいます。
ついに自分の時代が! と義輝は思ったことでしょうね。
これで大手を振って政治ができる…と思いきや、またも新たな敵が登場します。
三好家の家宰だった松永久秀(まつながひさひで)です。最後に爆死したという逸話が有名な、戦国一のダークヒーローですよ。これは手ごわい!
というわけで、せっかく三好長慶が死んだのに、松永久秀と三好家重臣3人(三好三人衆)が義輝の前に立ちふさがりました。
彼らとしては、将軍はこのままお飾り状態でいてもらわなくては、自分たちが好き勝手できませんからね。
それでも、大望を抱く青年将軍・義輝は、彼らにとっては脅威であり邪魔な存在だったんです。
そして、彼らはとんでもない行動に出たのでした。
言うこと聞かないなら、殺っちまえ。
これが、永禄の変の勃発でした…。
義輝、剣豪伝説を見せつける! しかし…
永徳8(1565)年、三好三人衆と松永久秀の息子・久通(ひさみち)が、義輝の屋敷を突如包囲します。名目上は「義輝に訴訟がある」ということでしたが、その数は2千とも1万とも言われており、どう見てもただの訴訟でないことは明らかでした。
そして、義輝側の返答を待つことなく、彼らは攻め入ったのです。
対する義輝のそばには、わずか数十名の側近がいたのみ。
もはやどうにもならない…と義輝は腹を決め、側近たちと別れの盃を交わすと、自ら薙刀を持ち、打って出たのです。
塚原卜伝像:Wikipediaより引用
義輝は、剣聖と称された剣豪・塚原卜伝(つかはらぼくでん)に師事し、奥義を伝授されていたとも伝わっています。
その剣豪ぶりを、最後の時に彼は見せつけたのでした。
将軍家に伝わる名刀の数々を畳に刺しておき、使っていた刀がボロボロになると、次の刀を引き抜いて敵を斬りまくり、そしてまた次の刀を抜く…という風にして、敵を斬り続けたんだそうです。
その強さには三好・松永側の兵たちも防戦一方となり、ついには、四方から畳を持って押しかかり、義輝の動きを止め、とどめを刺したのでした。
義輝、享年30。まだまだやりたいことがあったはずの、無念の最期でした。
義輝の辞世の句にグッとくる…!
足利義輝:Wikipediaより引用
義輝が側近たちと別れの盃を交わした際に詠んだと言われる句が、彼の辞世の句だといわれています。
「五月雨は 露か涙か 不如帰(ほととぎす) 我が名をあげよ 雲の上まで」
(この五月雨は、雨なのか涙なのか。ホトトギスよ、私の名前を雲の上にまで伝えてくれ)
覚悟を決めた彼の思いが伝わり、爽快さもありますが、やはり無念がにじみ出ていますよね。何度読んでも、何とも言えない思いにさせられる句です…。
多くの武将たちが辞世の句を詠みましたが、義輝ほど、覚えやすく胸にすっと入ってくる句はないんじゃないかと思いますよ。
人は生まれる時代を選べないとはいえ、義輝は、生まれてきたタイミングが悪すぎました。室町幕府初期に生まれていたら、名君と呼ばれたのではないかと個人的には思っています。本当に、無念だったでしょうね。
まとめ
- 幼い頃から、逃げ回る生活をしなくてはならなかった
- 三好長慶は因縁の相手だった
- しかし、長慶と和睦を結んで表面上は平穏を保った
- 将軍の権威回復のために色々と策を講じた
- 長慶が死んでも、松永久秀の台頭によって主導権を得られなかった
- 永禄の変により暗殺されたが、最後まで敵を斬りまくって抵抗した
- 辞世の句が泣ける
剣豪伝説は伝説にすぎないとも言われていますが、彼が誇り高き将軍だったことは間違いないと思います。
将軍家に生まれていなかったら、戦場で大活躍していたかもしれませんね。
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