関東の戦国時代は彼が発端!? 誇り高き鎌倉公方・足利成氏、30年の戦乱を戦い抜く

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戦国時代の始まりは応仁の乱もしくは明応の政変である、という説が一般的ですが、関西と関東では事情が違いました。関東は関東ですったもんだがあったんです。それが、鎌倉公方・足利成氏(あしかがしげうじ)が起こした「享徳の乱(きょうとくのらん)」。複雑な政治状況と豪族の思惑が絡み合った、約30年にも及ぶ戦乱でした。さて、その中心にいた成氏とは、どんな人物だったのか…その生涯をご紹介します。

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鎌倉公方への復帰

 

嘉吉(かきつ)元(1441)年、「万人恐怖」と恐れられた室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が暗殺されました。

彼は生前、自分に反抗した鎌倉公方・足利持氏(あしかがもちうじ)を許すことなく、周囲の助命嘆願にもかかわらず殺害を命じていました。そして、その遺児たちを担いだ乱も鎮圧し、持氏の血は絶えたかと思われていたんです。

 

しかし、もう一人の遺児がいました。

その子こそ、後の足利成氏。

やがて彼は鎌倉府の再興を許され、父の跡を継いで5代鎌倉公方の座に就いたのでした。

 

さて、鎌倉公方というのは、室町幕府が関東を治めるに当たって設立した鎌倉府の長。初代鎌倉公方は室町幕府初代将軍・足利尊氏の四男・基氏(もとうじ)であり、代々の鎌倉公方は「自分は将軍に劣らない」という高いプライドを持って生きてきました。そのため、徐々に幕府とは仲が悪くなっていったんです。その鎌倉公方を補佐するのが関東管領(かんとうかんれい)でしたが、両者の仲も良いのか悪いのか、微妙なところでした。

 

右腕となる人物は父の仇

というのも、成氏の父・持氏を殺害した人物こそ、成氏を補佐する立場である関東管領・上杉憲忠(うえすぎのりただ)だったんです。将軍の命令に従っただけとはいえ、後味の悪さが残っていました。また、そんな父の仇を右腕としなければならなくなった新鎌倉公方・成氏には、もっと複雑な思いがあったに違いありません。

加えて、かつて持氏を支持した豪族たちと持氏殺害に加担した上杉氏との間でも、微妙な空気が漂っていたわけです。

 

これでは当然、うまくいくわけもなく、やがて事件が起きたのでした。

 

当時、上杉氏の中でも力を持っていたのが、関東管領を多く輩出する宗家・山内(やまのうち)上杉氏と、もうひとつの勢力・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏。

この両家の家宰(かさい/家老のような役職)が、成氏を攻めてきたんです。成氏が家宰のひとりの領地を取り上げたり、上杉氏やその家臣を遠ざけ、父以来鎌倉公方に従う豪族たちを取り立てたりしたためでしたが、攻められた成氏は鎌倉から一度避難しなくてはなりませんでした。

 

なんとか味方の豪族たちの活躍により鎌倉に戻ることができた成氏でしたが、この事件の裁定には不満を抱きます。

幕府は、上杉氏に対しては成氏へ服従するようにと命令したものの、事件の首謀者でもある2人の家宰に対しては処分を曖昧にし、そのままにしてしまったんです。

やっぱり、幕府と鎌倉公方は対立する運命なんですね…。これで、成氏は幕府への不信感を決定的に強めたのでした。

 

享徳の乱のはじまり

まず、成氏は鎌倉公方の権威固めに奔走しました。徳政令などを発布し、自分こそが関東を治める存在だと喧伝したんです。

一方、幕府も成氏に対して強気な態度を取りました。関東管領の取次がない書状はすべて受け取り拒否とし、事実上、上杉憲忠と険悪になり取次なんてしてもらえるわけもない成氏の書状を全面拒否する姿勢を取ったんです。こっちも意地悪いですね。

こういうわけですから、持氏がますます反幕府と上杉憲忠への憎悪を強めていくこととなりました。

 

そして、享徳3(1454)年、成氏は憲忠を招き謀殺してしまいます。父の仇という恨みや、自分の政治基盤を固めるためなど、様々な理由がありました。

これは、幕府にとっては成氏を討伐するいい口実。幕府は駿河(するが)守護・今川範忠(いまがわのりただ)などに討伐命令を出し、成氏を「朝敵」としたんです。父・持氏も朝敵として追われましたから、父子2代にわたって朝敵認定されてしまったんですよ。「享徳の乱」の始まりでした。

 

しかし、成氏がそんなことを気にするわけもなく、彼は関東で各地を転戦し、関東管領の指揮する軍を破ります。

ただ、この人、詰めがちょっと甘いところがあるようで、鎌倉を留守にしているうちに駿河からやってきた今川軍に本拠地を制圧されてしまい、帰れなくなってしまったんです。

仕方がないので、成氏は古河(茨城県)に御所を置き、ここで鎌倉公方ならぬ「古河公方(こがくぼう)」となったのでした。

 

こうして戦いを続けるうちに、関東は利根川を境として東西に分断されていきます。東が成氏、西が関東管領上杉氏といった構図になったんです。

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新鎌倉公方は「堀越公方」!?

さて、長禄2(1458)年、室町幕府と将軍・足利義政(あしかがよしまさ)は、異母兄の政知(まさとも)を新たな鎌倉公方として送り込むことにしました。

しかし、関東の武士団は彼を受け入れることを拒みました。まあ、京都からいきなりやってきて「鎌倉公方じゃ! 」と言われても、「何の事情もわからんくせに…! 」と思っちゃいますよね。

そういうわけで、政知は伊豆の堀越(静岡県伊豆の国市)にとどまり、「堀越公方(ほりこしくぼう)」となりました。

 

享徳の乱に何とか介入しようとした幕府ですが、それどころではなくなってきました。幕府内でも何かと抗争が起き、このまま応仁の乱へとなだれ込んでしまうのです。そのため、関東を構っている場合ではなくなってきたんですよ。

 

当然、成氏はそんな頼りない幕府の後ろ盾しか持たない政知を攻めます。自分こそ真の鎌倉公方という自負がありますから、政知の存在は非常に目障りですもんね。しかも同時に上杉方とも戦っていたというんですから、このバイタリティと執念、感心するしかありません。

 

ところが、またも成氏の詰めの甘さが露呈します。

この戦いの間に、今度は自身のお膝元となった下野・古河(栃木県と茨城県古河市)を上杉方にほぼ制圧されてしまったんですよ。だ、ダメじゃん…!

それでも、執念の成氏は古河を何とか奪い返します。ただ、この事実は今まで成氏派だった豪族たちの心を彼から少しずつ離れさせていき、中には寝返る者も出てきたのでした。

 

上杉の内輪揉めと和睦

成氏派の中でも徐々に温度差が出てきましたが、上杉家では内輪揉めが深刻化していたんです。

山内上杉氏の家宰の後継争いが起き、何と片方は成氏支持に回ったんですよ。なぜそこで成氏が出て来ちゃうのかわかりませんが…まあ、これは収束しますが、この時の立役者が扇谷上杉氏の家宰・太田資長(おおたすけなが)。後に知謀の将として名を挙げ、江戸城築城に関わることとなる太田道灌(おおたどうかん)です。

太田道灌:Wikipediaより引用

こんなことをしているので、関東管領にして山内上杉氏の当主でもある上杉顕定(うえすぎあきさだ)は、成氏を相手にするよりもまず家中を治めないといけないと考えるようになりました。しかも、内輪揉めの結果、扇谷上杉氏の力が増してきたことに危機感を覚えたんですね。

こういうわけで、顕定の頭に「いい加減、成氏と和睦すっか…」という思いがよぎったんです。

 

文明10(1478)年、成氏と顕定の間で和睦が成立します。その4年後には成氏と幕府が和睦し、約30年に及ぶ享徳の乱は収束したのでした。

 

朝敵でなくなった成氏は、嫡男・政氏(まさうじ)の名に将軍義政の「政」の一字をもらい、改元せずに使い続けた元号を元に戻します。意外と素直です。

 

ところで、鎌倉公方の一件はどうなったのかというと、結局2人のままという曖昧な感じになりました。

政知は伊豆支配しか認められなかったので、結果的には成氏がほぼ正式な鎌倉公方として認められたことになります。ただ、成氏は鎌倉に戻ることはできず、古河で一生を終えました。

 

臨終に際して、彼は息子に「再び鎌倉に戻り、関東を取り戻せ」と遺言しています。

ただ、この後彼の血筋が鎌倉に戻ることはありませんでした。

 

まとめ

  1. 父の死後、鎌倉公方に復帰した
  2. 父の仇である上杉憲忠が自分の補佐役だったため、関係は悪化した
  3. 上杉憲忠を謀殺し、享徳の乱を起こす
  4. 鎌倉を奪われ古河公方となるが、堀越公方の登場でおかしな事態に
  5. 上杉氏の内紛もあり、和睦を結んで享徳の乱を終結させる

 

鎌倉公方としての誇りを胸に、約30年もの大乱を戦い抜いた成氏。

 

詰めが甘いところもありましたが、存在感を発揮した最後の鎌倉公方だったと言っていいと思います。

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