突然ですが、明智光秀って何をした人物かご存知でしょうか?
「本能寺の変」で織田信長を倒した…そうです。確かにそれが彼にとっての最大の事実です。しかし、光秀のそれ以外のことについて、何かご存知でしょうか?
本能寺の変の裏切りについては、信長の仕打ちに耐え切れなくなって殺害を決意したとか、室町幕府再興のためとか、他に黒幕がいたなんていうのもありますよね。しかし、今回お話ししたいのはそういうことではないんです。
光秀の知られざる一面と、そして、実は秀吉に討たれてはおらず、江戸時代に再度現れたのではないか…ということ。俄然、興味が湧いてきませんか?
誰にもわからない、謎に包まれた前半生
明智光秀が生まれた年は、享禄元(1528)年とも言われていますが、はっきりとはしていません。あれだけ有名な人物なのに生まれ年もわからないなんて、いったいどんな出自だったんでしょうね。
一説には、美濃(岐阜県南部)の戦国大名・斎藤道三(さいとうどうさん/信長の舅に当たる)に仕えていたこともあると言われています。
ただ、道三は息子に殺されてしまうので、その後、光秀は浪人することになったみたいです。そこから北上し、越前(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕えることになったんですが、その時の逸話がすごいんですよ。
百発百中の鉄砲の名手!?
朝倉氏に仕えることになった理由として、その付近で起きた一揆を鎮圧するのに彼の作戦が的中したから、ということがあるそうです。
朝倉一門の大将に、どこからともなく現れた浪人・光秀が「夜襲に備えた方がいい」と進言します。誰もこれを信じませんでしたが、大将はこの言葉を受け入れて備えを固めていたところ、やはり夜襲があり、撃退することができました。その慧眼が見込まれ、朝倉家の当主・義景に推薦されたんだそうですよ。
そして、義景の前で光秀は自分の特技を披露することになりました。
当時、ポルトガルから入ってきたばかりの鉄砲を使いこなせる人間というのはまだまだ限られていたはず。
それを構えると、光秀は25間(約45.5m)四方が一尺(約30.3cm)の的に狙いを定め、なんと命中させたというんです。
しかも、撃った100発の内訳がすごい。的の黒い部分(おそらく中心付近)に68発、的の角に32発当たったというんですから、つまりは100発100中!これ、すごくないですか?
当時の鉄砲の射程距離は50mを超えていたと考えられてもいますが、それにしても全部を的に当てるというのは、到底ムリな話です。
おそらく、義景も家臣団も「なんだコイツ!?」とびっくりして舌を巻いたことでしょう。
将軍と信長の両方に認められた「デキる」男
朝倉義景の元には、室町幕府が弱ったせいで京都に戻れなくなった、後の15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)が身を寄せたこともありました。そのため、光秀はそこで義昭に知られるようになり、やがて義昭が信長と接触するようになったため、信長にも知られることとなったわけなんです。
そして彼が与えられた役割が、義昭と信長の連絡役。
後の将軍と将来天下人となる(はずだった)男との橋渡しができるって、相当ハイスペックでないとできないと思いますよ。コミュニケーション能力、頭の回転の速さ、実行力…現代の「デキる」人材に必要なものを、光秀は全部持っていたんだと思います。
信長にもっとも重用された男・光秀
織田信長:Wikipediaより引用
光秀が信長に仕えるようになったのは、すでに彼が40歳を過ぎた頃だったと考えられています。1570年前後でしょう。となると、信長の元で過ごしたのは約10年ちょっと。その間に、彼は織田政権のトップクラスの幹部にまでなっているんですよ。
彼は生涯に20回ほどは戦に出ていますが、はっきりと敗走したと考えられるのは2回だけ。そのうち1回は秀吉に倒された山崎の戦いですから、信長の武将の中でも相当の戦上手だったと考えられますよね。
天正9(1581)年には、京都御馬揃え(きょうとおうまぞろえ)を信長から任されています。これは、信長が天皇の前で行った軍事パレードみたいなもので、彼の家臣たちがずらりと隊列を組んで行進したんです。つまり、信長の力を天下に示す大事なイベントだったんですよ。
それを見事に成功させた立役者が、他ならぬ光秀でした。事前の計画はとても綿密だったでしょうし、各武将との連絡も欠かせなかったはず。すべてを一手に引き受けることができ、信長も光秀に任せたということは、それだけ信頼が厚かったということなんですね。
ちなみに、こんな風に戦以外にも重用されていたので、光秀は過労死寸前にまでなっています。真面目な人だったんですよ。
どこで身に付けた?あふれる教養
明智光秀:Wikipediaより引用
加えて、彼は和歌や茶の湯もたしなむ教養人でした。
和歌は貴族のたしなみでもあり、なかなか学ぶことはできません。茶の湯にしても同じことで、その頃はまだいわゆる「意識高い系」の人や権力者たちに独占された、最先端の文化だったんです。
それらを光秀は身に付けていたというんですから、相当頭脳明晰だったんですよね。この辺が、ちょっと秀吉とは違いました。
このように、文武両道の光秀は、わずか10年余りで信長にとって欠かせない存在となっていたんです。
妻を愛し、民を愛す
光秀には煕子(ひろこ)という糟糠の妻がいました。
婚約して間もなくのこと、美しかった煕子は疱瘡にかかり、顔に痕が残ってしまったんだそうです。そこで彼女の父はそっくりな妹を身代わりにして光秀のところに送ったのですが、光秀はすぐにそれを見破り、こう言いました。
「私の妻は煕子どのと決めている」
光秀、カッコいい…!
しかも生涯側室を持たずに煕子だけを大切にしたというんですから、光秀の株、急上昇ですよね。
煕子もまた、夫に尽くしました。
浪人中の光秀がお金に困った時、自分の黒髪を売ってまでしてお金をつくり、夫を助けたんだそうですよ。
そして、過労で倒れた光秀を献身的に看病したあまり、彼女の方が病気になって亡くなってしまったんです。
夫婦の愛、深すぎます。
それだけでなく、光秀は領地では善政を行って領民に「いい殿様だ」と慕われました。
また、戦で亡くなったり負傷したりした家臣へ見舞状を送っています。こうしたことは、当時では異例のことだったんですよ。
光秀の優しい人柄が伝わってきますよね。
光秀は江戸時代まで生きていた!?
徳川家康:Wikipediaより引用
信長を討った後、光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れ、落ち武者狩りに遭って命を落としたと言われています。
しかし、光秀がそこでは死なず、天海(てんかい)という僧となり徳川家康の側近として仕えたという説があるんですよ。
というのも、光秀の首として差し出されたものは、顔の皮がはがされていたため誰だか分らなかったというんです。
そして、戦国時代末期に突然、家康の側近として天海という僧が登場します。天海はあっという間に家康に参謀・相談役として存在感を持つようになり、ついには家康の遺言を預かり、日光東照宮建立にまで至っているんですよ。その後、これは事実なんですが、天海は家康の孫・家光にまで仕え、100歳を超える長寿を全うしています。
天海が光秀だとされる仮説の数々
天海:Wikipediaより引用
「天海=光秀」説には数多くの仮説がありますので、幾つかご紹介しますね。
まずは、2人の筆跡が似ているということ。鑑定の結果、同一人物、もしくは近親者なのではないかとされたんです。
また、日光のいろは坂の途中にある絶景ポイント「明智平(あけちだいら)」の名付け親は天海であると、付近の社寺には伝わっているそうなんです。「明智の名を残すのだ」と天海が言ったとか言わないとか…。
そして、光秀がとっくに亡くなっているはずの慶長20(1615)年、光秀という名で比叡山に灯籠が寄進されているんです。また、比叡文庫という比叡山の書庫には、俗名が光秀という名の僧がいた記録もあるんですって。
同じ名前の人がいたのかもしれませんが、ここまでいろいろ重なると、もしや…と思いたくなりますよね。
きわめつけには、家光の乳母・春日局(父が光秀の家老だった)が天海に会った時、「お久しぶりです」と言ったんだとか!
まとめ
- 光秀の前半生は謎
- 鉄砲の名手だった
- 将軍と信長両方に仕えるほどデキる男だった
- 信長の信頼は絶大だった
- 最先端の教養を身に付けていた
- 愛妻家だった
- 江戸時代まで生きていた?
- 「光秀=天海」説の理由
こうして見てくると、光秀=逆賊というイメージが変わってきましたよね。
もし、光秀が天海だったなら…ワクワクが止まりません!あなたなりの仮説を立ててみませんか?
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