明智光秀は生きていた!? 天海に転身?それとも・・・

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本能寺を襲って主君の織田信長を討った明智光秀。

しかし山崎の合戦で敗北し落ち延びる途中、農民の落ち武者狩りにあい命を落とします。

ところがその死後から光秀の生存伝説がささやかれてきました。ある人物に変身して歴史の表舞台にも登場したとも。

そんなとんでもミステリー、光秀の生存伝説についてご紹介します。

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光秀は死んでなかった!?

6月2日に信長を討った光秀はわずかその11日後の13日、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、本拠の坂本城に向けて敗退する途中、小栗栖(京都市伏見区)において農民に竹やりでわき腹をつかれ落馬。

もはやここまでと悟り切腹したと言われています。

その首は隠されたのですが、のちに探し出されてさらし首になりました。

ところがじきに奇妙なうわさが流れます。なんと光秀が生きているというのです。

そもそもの発端は光秀の首が本物なの?と疑わしかったことが原因。

秀吉のもとに光秀の首が届けられたのは死の3日後で、腐敗が激しかったと言われています。

また、秀吉がこれは違うと言ったとか、光秀の首が3つも持ち込まれたとか怪しい話だらけ。しかも光秀の首は見物人が確認できないほど高い位置にさらされたようです。

もしかして誰もちゃんと光秀の首を確認していない? こんな話を聞けば、本当に光秀は死んだの?と疑問もわきますよね。

死に方についても光秀が竹やりに突き通されるような鎧を付けていたのか?護衛もいた光秀がみすみす農民に殺されたのか?護衛が討たれたり争ったりという話がないのはなぜ?など考えれば考えるほど謎めいてきます。

そのためじつは死んだのは替え玉で、光秀は生き延びたのではないかと考えられたようです。

事件から約50年後のことですが、村を調べたところ光秀を手にかけたとされる中村長兵衛という農民のことを誰も知らなかったそうです。

おまけにその後、光秀が生きていたかも~という根拠が出てきます。

比叡山には慶長20年2月17日寄進願主光秀という石灯篭が寄進されています。これは山崎の合戦から33年後となる1615年のこと。

あれれ?この年まで光秀生きてたの?とびっくりしますよね。

しかもじつはこの慶長20年というのがミソ。この頃はちょうど大坂冬の陣が終わり、大坂城の堀が埋め立てられていた頃。つまり豊臣家の命運が尽きようとしていた頃でした。

もちろんこれが光秀という名の別人の可能性もあります。しかし秀吉に葬られた光秀が慶長20年に寄進するなんて因縁めいた話・・・を感じずにはいられませんよね。

光秀が天海に生まれ変わった?

天海像:Wikipediaより引用

じつは死んでいなかった!と言われるゾンビのような光秀ですが、凄いのはただ生き延びただけではないんです。とんでもない伝説も生み出しました。

徳川家康のブレーンだった天海、その正体がじつは光秀だったのではないかというものです。天海は家康晩年の黒幕的存在。宗教や政教顧問として家康のあつい信頼をうけていました。

この天海、会津出身で出家して比叡山に入り、奈良の寺で学び、一時は武田信玄のもとにいたとも言われていますが、前半生は曖昧で、自身の過去を人にあまり話したがらなかったそうです。

そんな天海が歴史の表舞台に出るのは武蔵国の無量寿寺北院に入ったとされる1588年頃。そう、光秀が山崎の合戦で歴史から消えてから数年後のことでした。

ということはー。光秀が前半生の人生を捨てて新たに天海になり変わったという可能性がありえるわけです。

とはいえ、光秀が生き延びた、天海になり変わったというミステリー、突拍子すぎて簡単に信じられないですよね。

次のような説が天海=光秀説の根拠とされています。

まず家康と天海が初めて会った時には旧知のように話し込んだとされ、これは家康にしては珍しいことなのだとか。

ちなみに天海=光秀だとすれば、再会した時の家康も驚いたでしょうね。「ゆ、幽霊だー」となどと腰を抜かしはしなかったでしょうが、体は触ってみたかもしれません(笑)。

生きていると納得した後、感動の再会となったのでしょうか。

京都府にある慈眼寺は本堂に光秀の位牌と木像を安置しています。天海の諡号慈眼大師と慈眼という寺名の一致が光秀の存在を思わせます。

大阪にある本徳寺には光秀の肖像画、位牌などがありますが、そこには光秀が「僧になって去って行った」ととれる文章も残されています。

天海の差配で造営された家康の廟である日光東照宮。ここにはなんと明智の紋、桔梗紋が使われています。さらに日光のある高台を「明智平」と名付けたのも天海。

そして何より天海=光秀説の理由とされるのが3代将軍家光の乳母春日局の存在です。

江戸幕府で権勢をふるった春日局は、光秀の親戚で重臣の斉藤利三の娘でした。

彼女は乳母募集に応募したことになっていますが、将軍家の跡継ぎの乳母に謀反人の娘が選ばれるでしょうか。天海の身内だったからこそ乳母にしたのではないでしょうか。

また、家康は土岐明智家を再興させています。

謀反人の明智家への厚遇ぶり。この裏に何か謎が秘められているような気がしますよね。

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秀吉への復讐

ではなぜ光秀がなぜ天海となり家康に接近したのか。それは自分を葬った宿敵豊臣秀吉への復讐心と考えられます。

天海は家康に「豊臣家を一緒に潰して天下を取りませんか」とささやいたのではないでしょうか。家康も光秀の才知を買って手を結んだのでしょう。

ただし天海が歴史の表舞台に登場するようになったのは秀吉の死後のこと。さすがに秀吉に正体がばれるとヤバイので、秀吉生存時はおとなしくしていたのでしょう。

秀吉の死後、表舞台に出てきます。

ちなみに天海が関ヶ原の合戦に出陣していたという説もあります。というのもある関ヶ原合戦図屏風には家康の近くに陣取る軍師・天海が描かれています。

もしかしたら裏で一役買っていたのかもしれません。なぜなら小早川秀秋が家老稲葉正成の説得で徳川方へ寝返り、これが家康の勝利を決定づけたのですが、正成の妻はじつは斉藤利三の娘。のちの春日局です。

天海もこの秀秋、正成の動向に何か関与していたのかもしれませんね。

豊臣家を滅亡させた大坂の陣のきっかけとなった方広寺の鐘の一件(鐘の銘が家康を冒とくしていると抗議)も天海の入れ知恵とされています。

こうして家康を使って豊臣家に復讐を果たした光秀は、言えないけど光秀はここにいるよと言いたーいと思い、日光東照宮や比叡山などに自分の正体を残したとも考えられます。

もちろん天海=光秀説はツッコミどころ満載です。

たとえば東照宮の桔梗紋も明智のものとは限らないし、春日局の採用も小早川秀秋の裏切りを説得した稲葉正成の妻だったからとも考えられます。

さらに天海は1643年に108歳で亡くなったとされますが、光秀であればもう少し年上になりありえないという説も(人生50年の時代に108歳もありえない気もしますが)。

そのため天海=光秀の娘婿だった明智秀満説もとなえられています。

その他の光秀生存説

ただし光秀生存説、こんなことで驚いていてはいけません。

なんと茶人の千利休になったというキテレツ説もあります。

こちらも光秀の死後、利休が文献にたびたび登場するようになったことが理由の一つ。山崎の戦いの後、堺に隠れて千利休に変身したとされています。利休を気に入った秀吉は重用しましたが、その正体が光秀とバレたため利休は自害したのだとか。

ただしいくらなんでもとっくに秀吉は気づいたでしょう!秀吉もバカじゃないよと言いたくなりますが。

逆に光秀は表舞台には出ずひっそり生き延びたという生存伝説もあります。

江戸時代に成立した『翁草』には、死んだのは光秀の影武者で、本物の光秀は美濃山中の中洞(岐阜県山県市)に生き永らえたと記されています。ここは光秀の出生地という説もあり、光秀は故郷でひっそり暮らしたのかもしれません。

光秀は自分の身代わりになった家臣の荒木山城守の深い忠誠を忘れまいと荒深又五郎(または小五郎)と名乗り中洞で隠遁生活をおくったのだそう。

しかしやはり秀吉に対する恨みは忘れがたかったのか1598年には江戸に出て、家康に会い、何かあれば味方すると約束します。

そして関ヶ原の合戦に赴く途中、増水した藪川(根尾川)を渡っている時に濁流に飲み込まれ溺死したと伝えられています。時に光秀75歳でした。

えー溺死。せっかく敗走しながら生き延びたのに結局最期が水死とは何とも哀れです。もしかしたらここで溺死したことにしてこの後、天海に転身したのかもなんて妄想も膨らみますよね。

この中洞には今も光秀を生む前、その母が「男子ならば天下に号令する武運を授けたまえ」とその岩に座って祈ったという行徳岩(ぎょうとくいわ)など光秀ゆかりの史跡もいくつか残されています。

 

まとめ

ここまで光秀生存説を見てきましたがいかがでしたでしょうか。単なるオカルトめいた話と受けとるか、裏に何らかの真実が隠されているととるか・・・。

でも信長に命をかけて反抗しながら、秀吉軍団にあえなく散った光秀がその後も姿を変えて生き抜き豊臣家を倒したという伝承には壮大なロマンがあると思いません?そんな思いが不思議な伝説を生み出したとも考えられます。

光秀は元々織田家家臣ではなく中途入社組。それも将軍足利義昭の庇護をお願いするついでに自分も信長に売り込むというかなりちゃっかりした転職パフォーマンスがお得意です。人生そのものもリセットして天海へと転職ならぬ転身を遂げたのかも・・・と思わせてくれますよね。

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